矢野雅幸ブログ

ヒコー少年回想録5

投稿日時:2016/05/19(木) 16:15

1980年早春、その日も北原照久さんに夕食を誘われて、門前仲町のマンションに向かって青山通りを走っている時に、外苑前から僕達の車の前に小さなスポーツ・カーが来て、その車と5分ほど同じ方向に走った時に北原さんが、この車は可愛いね何と言う名前なのと聞かれたので、MGミジェットと言ったら、この車を買うのならティン・トイを買う人を見つけてくれると言うのです。僕はそれまでに各地で集めていた物と、ニューヨークで買った多くのティン・トイを持っていたのです。

当時は参宮橋に住んでいて免許を取ったばかりで、夜は自転車で環6通りにある、フィアットのショー・ルームに展示していたX1-9(MRでベルトーネのデザイン)を見に行くのを楽しみにしていました。そんな時に北原さんの一言でMGミジェットを買う事になり、その後13年間は英国のオープン・スポーツ・カーにハマッテ仕舞いましたが、それは英国車との濃密な楽しい時間でした。

最初のMGミジェットは納車されてから11ヶ月の運命でした。

1981年1月23日に運命の日を迎えました。甲州街道と西参道交差点横の水道局資材置き場下に埋めていた本管が破裂して西参道が川の様になり、僕の住むマンションの脇道まで水が流れ込んでいて悪い予感がしましたが、川になった西参道を冷たい水の中を膝まで浸かりながら渡りました。

甲州街道から参宮橋駅に向かう西参道の右側は下り坂になっていて、そこにはショッキングな光景が広がっていました。数棟の家が屋根の近くまで水没していたのです。その日は晴れでシュールな光景でした。

僕のミジェットは首都高下の西参道から一段低い所のマンション地下に置いてありましたが、その時は駐車場には近づく事も出来ず、夕方に水が引いてからマンションに行きましたが、地下の駐車場の水中で物言いたげそうにヘッド・ライトが灯いて哀れでした。

翌日の昼に駐車場の水を水道局が強制的に排水して、ミジェットのカバーを取りドアを開けてメーター・パネルにキーを差し込んで回しましたが、エンジンは勿論動きませんでした。ディラーのレッカー車が来てバンパー下のフックにワイヤーを掛けて引いて行かれる様は、何か胸が熱くなるものがありました。

約1ヶ月後にディラーから届いた明細書を見ると、そこには当時のポルシェ911が新車で買える様な額で、しかも全部のパーツは揃って無く修理代も書いていない明細書でした。当初、水道局の担当者は車を修理する気でしたが、この明細を見た途端に担当者の二人は全額補償の書類を用意してくれました。

次のMGミジェットを探しましたが、その時点では生産は終了していてプレミアが付いていたのです。ディラーからの連絡で埼玉県のサブ・ディラーに1台在庫があり、直ぐに行って買いましたが、ラジオも付いていない素の状態でした。このMGミジェットには2年程乗っている間に四国や九州まで行きましたが、その間に前のミジェットと同じ箇所が調子悪くなり、故障する度に僕のティン・トイはパーツ代や修理代に化けてしまいましたが、車の事は色々と勉強になりました。

次の車は注文して1年6ヶ月以上待って納車されたのは、英国車のケーターハム・スーパー・セブンで、アルミ・ボディのパイプフレームでボディは二人で持てる重さでしたが、レーシング・カーと棺桶に片足を突っ込んだ様な車でした。1984年当時、セブンは国内に200台程しか無くて、都内でも1年に1台見られるとラッキーな時代で、ケイターハム・セブンとの約11年(エンジンの違う3台)は僕の車人生の中で一番超濃密な時間でした。 このケーターハム・スーパー・セブンの為に、英国サリー州ケーターハム・ヒルズの本社に行った話しは次の機会に。