矢野雅幸ブログ

ヒコー少年回想録12

投稿日時:2017/05/04(木) 09:51

宇高連絡船で話しかけて来た人は30代の長距離トラック・ドライバーでした。その人と話している内に分ったのですが、大阪に荷物を陸送していたのです。僕の行き先を聞いて、その人は親切にも僕を助手席に、自転車を荷台に載せて伊丹まで送ってくれました。

観音寺市から伊丹市まで約250Kmなので、自転車で2日を予定していましたが、その日の夕方に伊丹市の緑ヶ丘に着きました。

伊丹の緑ヶ丘小学校4~5年生時の友達には連絡してなかったのですが、突然に会いに行ったにも関わらず他の友達も呼ぶことになって翌日に会う事になり、その夜は母の親戚宅に泊めて貰いました。

翌日は朝から友達3人と一緒に、緑ヶ丘の自衛隊に置いて在るT−6テキサン(二人乗り練習機)に乗って記念写真を撮り、その後で緑ヶ丘小学校時代の担任だった谷本先生(人格者で、後に校長になった)に会いに行きました。谷本先生は丁度プールで子供達の指導をしていて、久し振りの再会にとても喜んでくれました。伊丹には3日居ましたが、伊丹空港に行きましたが、当時の空港はのんびりしていて待合室も誰も居なくて無人駅の様でした。待合室の建物と新聞社格納庫の間に入って行けましたので、駐機していたデハビランド・ダブ(イギリス製双発短距離旅客機)の前に自転車を置いて写真を撮れるぐらい自由でした。翌日、尼崎の兄(異母兄弟)の会社寮に2泊させてもらい、その間に小学4年生の時に見た、梅田の阪急デパートのプラモデル売り場に行きましたが、そこには流行のスロット・レーシング・カーがメインで、他のプラモデルは小学生の時に見た売り場とは全然違っていました。

スロット・レーシング・カーのサーキットを店員に聞いたところ、

阪急デパートの裏に在ると言うので行きましたが、サーキットは見た事が無い広さでサーキットが2つ在り、休日でも無いのに人で混み合っていました。当時としては10分間¥100(レンタ・スロット・カー含む)は非常に高い料金でしたが、一度レーンを走らせて見ると、面白くて高いと思いながら何度か遊びました。

どうしても自分専用のスロット・レーシング・カーが欲しくなり、コグレのフェラーリ158F1(1/24と表記しているが、実際は1/20位・¥800)を買ってしまい、夜にキットを組み立て、次の日もサーキットに行きました。

当時、スロット・レーシング・カーはブームで、日本の各模型会社

(タミヤ、ハセガワ、マルサン、コグレ、ニチモ、イマイ、大滝、童友社、学研)は次々と新モデルを発売しましたが、殆どの模型会社はアメリカ製(コックス/マグネシュウムのシャシー+ホイールは製造の難しさとコスト高で他社は作って無い!、モノグラム、レベル、K&Bはアルミ・シャシー+ホイール、ETC)の模倣でしたが、価格は外国製より1/2~1/3と安かったです。

タミヤはブームの終り頃にアルミ・ダイキャスト製サイド・ワインダー方式(モーターを進行方向に対して横に置く、当時はモーターを縦に置くイン・ラインが普通だった)で優秀なシャシーを造りました。

元々はイギリスで生まれて、アメリカでブームになってから、日本でブームになりましたが、何処かの教育委員会(最近も、裸足のゲンの閲覧を制限する暴挙に出た教育委員会が、まだ存在していた!)が青少年の非行(?)に繋がると言う事を言い出して、サーキットへの出入を禁止した事で、急速にブームは去りました。 

                            続く

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矢野雅幸(やの まさゆき)
大学卒業後、CBSソニーレコード(当時)に入社。27歳で独立、フリーのデザイナーとして「ビタミンスタジオ」を設立。数多くのアーティストのレコード、CDジャケットのデザインを手懸けている。その後東京 南青山の骨董通りにデスクトップ/ミュージアムモデル専門店「ウイング クラブ」をオープン。この種のモデルの国内における認知を高めると共に、独自のジャンルとして定着させた。