矢野雅幸ブログ

ヒコー少年回想録14

投稿日時:2017/05/04(木) 09:54

1976年のニューヨーク(以下NY)での音楽と映画の話です。

当時、毎週ビレッジ・ボイスを見ていると色々なライブ・ハウスで有名なミュージシャンのライブを演っていて、観れたライブもありましたが、チケットが売り切れで観れなかったライブは僕の好きなミュージシャン達でした。

11月の始めにビレッジ・ボイスでロビン・トロワー(75年に中野サン・プラザで観ました)の前座にリック・デリンジャーが出演するのを見つけて、直ぐにラジオ・シティ・ホールにチケットを買いに行き、同ホールでデリンジャーのライブを観ましたが、アンコール曲で「ロックン・ロール・フーチークー」を演奏している時にリード・ギターのリック・デリンジャーのBCリッチ(ワイヤレス)とサイド・ギターのレス・ポール(ワイヤレス)を御互いに空中に投げて、それぞれが相手のギターをキャッチしてから弾くのを初めて観ました。

ライブ・ハウスで観損ねたミュージシャンは3人いて、1人目はエルビス・コステロで、ビレッジ・ボイスに載った日の夕方にボトム・ライン(ダウン・タウンに在る有名なライブ・ハウス)に直接をチケットを買いに行きましたが、チケットは完売していました。

2人目はフランク・マリノ・アンド・マホガニーラッシュで、その当時よく聞いていたギタリストですが、気が付いた時にはライブは残念ながら終っていました。

3人目は、当時一番聞いていたジョニー・ウィンターでしたが、出演していたライブ・ハウスがマンハッタンの外で、その場所は車でしか行けないし、ライブが終るのは夜中になるので勧められないとスピーク・イージー・アンティクスのボブとリタに言われて断念しましたが、ジョニー・ウィンターはブルース・フェスでマディ・ウォーターズ(ブルース界の大御所)のゲストで出て来て「カンサス・シティ」をタキシード姿(当時出ていたLP”ジョン・ドゥソン・ウィンター”と同じ姿でした)で細いタバコを燻らせながら歌っていたのを観たのが印象的でした。

76年のNYでは5月に「スターウォーズ」が封切られ、僕は9月の後半に観ましたが、封切りから4ヶ月も経っているのに映画館は混んでいて、映画が終わるとロック・コンサートの様に全員立ち上がって拍手していたのは映画館では初めての経験でした。

本屋にはスターウォーズ関連の書籍やグラフィック関係の本が沢山並んでいましたし、スターウォーズのサウンド・トラックを担当したジョン・ウイリアムスのコンサートが有ったりして、NYでは流行っている感じでした。

ビレッジ・ボイスには映画の欄や広告が載っているのですが、その中に気になる宣伝が載っていて、最初に見た広告には「第一種接近遭遇」とキャッチ・コピーが書いていましたが、次に見た時は「第二種接近遭遇」と書いてあり、その時はまだUFOが出てくる映画とは思っていませんでした。

11月初めの水曜日にビレッジ・ボイスを買いましたが、それには「第三種接近遭遇」のタイトル横に土曜日から上映と書いてあり、気になったのでボブとリタに聞いたところ、内容は広告されていないのでUFOが出ると言う事しか知りませんでした。

土曜日の3時頃に、その映画館に行きましたが、沢山の人が列で並んでいました。入口の横に貼ってある何枚かの写真を見ましたが普通の場面でしたので、列に並ぼうとしたらボブとリタが居て一緒に4時間待ちましたが、上映が終る度に映画館横の扉が開き沢山の観客が出てくる度に、待っている人達が映画の感想を聞くと、面白い”コメディ!”だったとかシリアスな”恋愛物語”とか言って内容を言わないのです。上映一回分のお客を入れると必ず支配人が出て来て、並んでいる前列の人達にスクリーンの前に一列だけ座席を開けてあるので、それで良ければチケットを売ると言うのです。勿論並んでいる人は買いますが、アメリカ文化のレベルを見たような感じがしました。

ある日、ビレッジ・ボイスでジミ・ヘンドリックスの映画を見つけましたが、ダウン・タウンの映画館で夜の10時から上映でした。

その時間に映画館に行き客席に座りましたが、館内は誰かが持ってきたラジカセをフル・ボリュームでジミ・ヘンドリックスの曲を流し、館内中にマリファナの臭いが充満していました。

1本目の映画は予想外で、クリームのフェアウェル・コンサートでした。2本目はジミ・ヘンドリックスの「バークレー」でしたが、このサウンド・トラックは「ジミ・ヘンドリックスの遺産」のLPを74年に買っていて音は聞いていましたが映像は初めてでした。LPを聞いた時に「ワイルド・シング」でフィードバックではなくてハウリングがなぜ起きているのが映像を見て分かりましたが、ジミ・ヘンドリックスはステージ上でトレード・マークのストラトキャスターを叩き壊してライター・オイルをかけて火を付けてギターを燃やしていたのです。

「パープル・ヘイズ」や「ジョニー・ビー・グッド」の曲等でフィードバックを使い、演奏も目を見張る物があり60年代当時では斬新なサウンドでした。

これ以降ジミ・ヘンドリックス・フォロワーを現在でも生んでいますが、80年代に僕が最も好きだったスティビー・レイ・ボーンも最たるフォロワーの一人でしたが、残念ながらヘリコプターの事故で亡くなりました。

3本目は「レインボー・ブリッジ」でしたが、この映画は途中まで女性のインタビュアーの話のようで面白く有りませんでしたが、屋外のステージ上にジミ・ヘンドリックスが現れて「パープル・ヘイズ」を演奏しましたが、インプロゼーションで演奏しているように感じました。途中から黒のフライングVを弾いていたのが印象的でした。

映画が終わったのは午前2時頃でしたが、その時間になるとさすがに映画館の周りには誰も居ませんでしたが、丁度アップ・タウンに行くバスが来たので乗りましたが乗客は僕一人だけでした。

黒人のドライバーが僕に何丁目で降りるのかと聞いて来ましたので僕が56丁目と言うと、黒人のドライバーはバス停ではない所で急に止まりました。ドライバーが入り口のドアを開けて近くの深夜営業のお店でコーヒーを買って来て、それを飲みながらバスを運転しましたが、途中のバス停には誰も居なくて以外と早く56丁目に着きました。しかし、56丁目にはバス停が無いのですが道路の角で止まり降ろしてくれました。それにしても気の利いたNYのバス・ドライバーでした。

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矢野雅幸(やの まさゆき)
大学卒業後、CBSソニーレコード(当時)に入社。27歳で独立、フリーのデザイナーとして「ビタミンスタジオ」を設立。数多くのアーティストのレコード、CDジャケットのデザインを手懸けている。その後東京 南青山の骨董通りにデスクトップ/ミュージアムモデル専門店「ウイング クラブ」をオープン。この種のモデルの国内における認知を高めると共に、独自のジャンルとして定着させた。