矢野雅幸ブログ

ヒコー少年回想録15

投稿日時:2017/05/04(木) 10:03

1968~72年の大学の4年間は、初めて親元を離れての生活だったので映画、音楽、プラモデル、そしてデザインの勉強に充実した時でした。

映画は博多の中洲と天神に在る、何軒かの映画館で観ていましたが、当時住んでいた香椎(「砂の器」は西鉄香椎駅から始まる)で唯一の映画館で観た事もあり、邦画から洋画まで観ていました。

当時、洋画ではニュー・シネマの出てくる時期に重なり「イージー・ライダー」「キャッチ22」等、今迄に無かったテイストの映画でした。その他にも難解な映画「サテリコン」「豚小屋」等も観ていましたが、「男はつらいよ」から「ある愛の詩」「空軍大戦略」「ウッドストック」等まで、気になった映画は邦画、洋画を問わずに観ていましたが、一番印象に残った映画は三部作を通しで観た「人間の条件/主演:仲代達矢」でした。この映画は3部作で休憩時間を含めると約11時間も映画館に居ましたが、2部の上映が終った休憩時間に弁当を売りに来て、こんなに長時間も映画館に居たのは、後にも先にもこの時だけでした。

大学生になってから、それまで聞いていたビートルズの他にクリーム、グランド・ファンク・レィルロード、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル等のロックとジャズに一時期ハマッテしまい、マイルス・デイビス、マル・ウォルドロン、ウェス・モンゴメリー等を聞いていましたが、しかしジャズのノリと音は僕には何か物足りなくて、4年生になってからテレビで「ナウ・エクスプロージョン」でジョニー・ウィンターを観てからはロックしか聴かなくなりました。

当時の博多はビートルズの海賊版(大抵はウィスキー・フラットかシェア・スタジアム/音は良くないのが普通)が1,2枚あれば、ロック喫茶(今でも在るのかな?70年代は下北沢には数店在った)に、お客が集まるほどビートルズのライブ音源に飢えていました。4年生の大学祭ではクラス・メイトの何人かで「JOHN」と言うビートルズ・ソングを二人で演奏して歌うレストランを開きました。演奏の時間になると満席状態になりましたが、歌と演奏が始まると半分くらいの人が帰るのが常でした!?

デザイン専門課程の授業は興味が有る事を勉強できるので楽しいのですが、課題のアイデアを出すのは苦しい反面、アイデアを具現化して作品にするのは達成感がありました。

卒業制作の作品は「レット・イット・ビー」の写真を複写して写真シルク・スクリーンでLPサイズの透明アクリル板に刷って作品にしましたが、その時は、後にレコード・ジャケットのデザイナーになるとは思いませんでした。

2年生の夏にB4サイズのパネルに、ニューポール17(第一次大戦のフランス戦闘機)の側面図を一晩徹夜してポスター・カラーで描いて、プラモ仲間の先輩から聞いた中州のリンドバーグ(このお店は火事で今は有りません)に売りに行き、オーナーの藤堂さん(中洲では有名人)が¥2500(1969年当時、一食100~150円)で買ってくれました。肉体労働以外で稼いだのは、この時が初めてでした。2年生の冬にデザインの課題に必要だと言って親にカメラ(ゼンザ・ブロニカ/6X6)と現像道具一式(紙焼機、等)買って貰い、デザインの課題や複写(殆どビートルズの写真)に使っていました。中州のリンドバーグから時々イラストや写真のパネル張り紙焼(B3~B全)の仕事を時々頼まれる度に徹夜で紙焼をしましたが、特に写真は一晩で1ヶ月分の生活費を時々稼げました。

プラモデルは大学生になってからも、中高生の時より買っていましたが、1年生の時は寮に居て二人部屋だったのでプラモは作れませんでした。秋になったある晩に寮の中が騒がしくなり、誰かが箱崎付近に飛行機が墜ちたらしいと噂が立ち、数人で屋上に上って箱崎方面を見ました。夜だったので箱崎の辺りが真っ赤に燃えているのが見えました。寮に居たデザイン科の一人が自転車に乗って墜落現場にパーツを取りに行きましたが、MPが来て現場の外に出されたそうですが、しっかりとパーツは拾っていました。僕も1ヶ月後に現場を見に行きましたが、ベトナム迷彩のF−4Eファントム(恐らくEタイプ)が九州大学構内の建設中のビルに墜落して、ビルの下に無造作に置かれていいて、機首とコクピットの辺りは焼失していましたが僕も外板の一部を拾いました。パイロットは博多湾上でベイル・アウト(脱出)したので、今でも博多湾の海底にエジェクション・シート(座席に仕込まれた火薬を爆発させて高度0mでも50mまで上がる緊急用脱出座席)が在るかも知れません。

2年生になってからは、プラモデルを作る為に資料が無いと作れなくなりモデルを買っても箱絵と中身を見てから、仕舞うようになってしまいましたが、3年生の時に作った1/48のMe109E(マルサン製だがモノグラムのコピー)を砂漠塗装にして撮影した写真を「航空ファン」に投稿したところ、初めてモデルの写真が雑誌に載りましたので、その号は今でも記念にとってあります。

大学4年の時に作ったMe262A1a(レベル/郡是製1/72¥100)でしたが、そのモデルはピースコン(デザインの課題に使用のエア・ブラシ)を使っての初めての塗装でした。それまでは、ラッカー塗料を筆でムラ無く塗るのを頑張っていましたが、

ぼかし塗装はエア・ブラシを使うと簡単に出来て、筆塗の時代は過去になった様な気がしましたが、そのモデルが僕のプラモ歴で完成させた最後のプラモデルになりました。

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矢野雅幸(やの まさゆき)
大学卒業後、CBSソニーレコード(当時)に入社。27歳で独立、フリーのデザイナーとして「ビタミンスタジオ」を設立。数多くのアーティストのレコード、CDジャケットのデザインを手懸けている。その後東京 南青山の骨董通りにデスクトップ/ミュージアムモデル専門店「ウイング クラブ」をオープン。この種のモデルの国内における認知を高めると共に、独自のジャンルとして定着させた。