矢野雅幸ブログ

ヒコー少年回想録16

投稿日時:2017/05/04(木) 10:04

高校生の時はバンドとプラモデルと自転車(初めて持った自転車で、プラモを見る事と買う為に片道3時間も苦ではなかった)だけを熱心にやっていましたが、専門の勉強には全然興味が持てなくて、試験はクラスではいつもビリから2~3番を死守(?)していて、完全にオチコボレでした。但し電気回路図は適当に描いていましたが、それだけは点数が良かったです。

3年生になった春頃に、職員室の側を通っている時に中から先生達の会話が聞こえて来ました。内容は何処の会社でも良いから生徒を就職させるという会話でしたが、僕は高校に入学した時から合ってないのが分ったので、1年生の冬休みに他の高校に変わりたくて親と担任に相談しましたが、あと2年で卒業だからと言われて納得させられました。

僕は本能的に、このままではマズイと思い大学に行くと親に言ったところ賛成してくれましたが、それまでに何の準備していなかったので兄に相談して、兄の通っている観音寺一高(映画「青春デンデケデケデケ」の舞台になった高校)の美術の教師を紹介して貰いました。土曜日の午後に面接をして、土曜日と日曜日の午後からデッサンをする為に非公式(正確に言うとモグリです)に美術部に入れて貰いました。

それからの高校生活は目的が出来たので、やっと充実感を得ましたが、余りにも勉強をしていなかったので毎日、多度津工業高校の向かいにある小学校横の町立図書館で勉強して、昼頃になると高校の食堂(汽車通学生が多かったので割りとチャントした食堂だった)に行きクラス・メイトと一緒に食事をしてから図書館に戻り、下校時に合わせて帰っていたら1ヶ月程して、担任の教師から母親が呼ばれて僕が高校に行っていないのがバレて仕舞いました。

当時、朝のテレビ番組で「ヤング720」を7時20分からその番組を見ると汽車(鈍行は1時間に1本しかなかった)に乗り遅れて次の列車で行くと1時間目の授業に間に合わない無いのですが、この番組はいつも色々なバンドが出演していて観るのを楽しみにしていました。

僕が一番印象に残ったバンドはファニー・カンパニーで、桑名正博氏がギブソンES335のブロンド(ナチュラル)でブルースっぽい曲(当時はブルースを知らなかった)のパワー・コードを弾きながら歌っていたのがヤケニ格好良かったのを憶えています。

僕は高校に毎日行ってましたが、いつもテレビを観てから行っていたので、一時間目は遅刻して校舎の外で待っていて二時間目から教室に行って授業とは関係無い勉強をしていましたが、その事と遅刻に関しては教師に注意されませんでした。

当時、僕の楽しみは家から自転車で5分位の観音寺一高美術室に土日に行ってデッサンをする事でした。

夏休みは観音寺一高(進学校だった)に行って課外授業を受けましたが、中学の時の友達は僕が教室に居るのを見て驚いた様子でしたが理由を話して課外授業を一緒に受けていました。大学に入学してから専攻のデザインは楽しくて、学校人生の中で興味のある事を一番勉強した時でした。

大学4年の時に二科展で入選した時に東京の会場で知り合った人が博多でデザイナー学院の先生をしていたので、デザイナー学院での授業に興味があったので、高校の時と同じ様に生徒として授業を受けさせて貰いましたが、これは良い経験になりました。

病気は選べないですが、人生は自分の決断と少しの運で如何にでもなるのですね!

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矢野雅幸(やの まさゆき)
大学卒業後、CBSソニーレコード(当時)に入社。27歳で独立、フリーのデザイナーとして「ビタミンスタジオ」を設立。数多くのアーティストのレコード、CDジャケットのデザインを手懸けている。その後東京 南青山の骨董通りにデスクトップ/ミュージアムモデル専門店「ウイング クラブ」をオープン。この種のモデルの国内における認知を高めると共に、独自のジャンルとして定着させた。