矢野雅幸ブログ

ヒコー少年回想録2

投稿日時:2016/04/28(木) 17:54

今回は幼少の1953年頃から1962年の小学6年生までの話で、マニアックな話が多々出て来ます。

今の仕事の原点になったのは、父が出張の度に飛行機のオモチャを僕に与えた事が原点で、今日まで続いているのかも知れません。

父からのオモチャで一番記憶に残っているのはF-94スター・ファイアー(機種名は後に知りました)のフリクション・トイでした。札幌に居た時に兄が交通事故に遇い、病院に見舞いに病室に入った途端に目が釘付けになりました。そこに置いて在ったのは見た事も無い飛行機のオモチャでした。

それはグラマンF-9Fパンサー(映画トコリの橋に出てくる)で胴体の真ん中にクランクを差し込んで廻すと主翼が実機の様に畳めるのと風防が透明(当時のオモチャの風防はブリキでプリントが普通)で磁石が付いていて、子供の僕には高価で現実離れしたオモチャでした。

父が陸上自衛隊に勤務しており北海道に5年住んでいましたが、子供の頃から意外と飛行機と接する機会はあったと思います。小学1~2年生の頃、千歳で空自の基地際に家族でテントに泊まりましたが、早朝に目が覚めた僕はテントを抜け出して展示している色々な機体を見ていました。その中で1機だけ気になるF-86Fセイバー(当時の新鋭機)が在りましたので、周りに誰もいないのを確かめてからセイバーの空気取り入れ口に入って行きましたが、途中まで進んだ時に子供心に危ないと思い後退りして出ました。

旭川では陸自の展示があり、そこには色々な兵器が並べていましたが、僕が興味を持っていたのはM-4シャーマン、M-24チャーフィー戦車(当時のゴジラとか東宝のSF映画に良く出ていました)とか、飛行機のL-19バード・ドック、スチンソンL-5とか、この頃は何の機種か知らないただ好きなだけの子供でした。

滝川で小学3年の時に友達と広場で遊び中に、突然轟音がして低空を2機の戦闘機が通過したのですが、機首には星のマークが描いていました。後で分かったのですが米海軍のA-4スカイ・ホークだったのです。恐らく北海道の近海に空母が来ていたのではと思います。

滝川には模型店が1店だけ在りましたが、そこには2色刷りのタグが付いたビニール袋に入った木製のキット(ラフに切った板と似た様な部品が数点、簡単な説明が入っている)の飛行機、戦車、船(船のキットは高い値段の物は箱に入っていました)が売られていたので一番安いキット(飛行機/¥30)を兄と一緒に買いましたが、道具も無い子供の僕達にはセメダインだけでは作れませんでした。当時、雑誌でプラモデルの存在を知りましたが、北海道では一度も見れませんでした。

小学4年の時に大阪の伊丹市に転勤しましたが、塚本に従兄が住んでいたので、遊びに行った時に従兄が作ったF-104(スケール/メーカー不詳)のプラモデルを初めて見ました。従兄と一緒に近くの模型店に行きましたが、そのお店にはプラモデルは沢山は置いてなくて種類も少なかったです。

伊丹では最初に緑ヶ丘と言う所に住んでいましたが、周りには模型店は在りませんでした。

その当時オモチャ問屋のマルサン商店が、プラモデル・メーカーとして初めてテレビで「陸と海と空」の番組を日曜日の朝10時30分から(関西地区)放送していましたが、宣伝のプラモデルを視るのを楽しんでいました。

その後、伊丹駅(丁度、阪急とJRの間)の近くに引越しをしました。市内に移った事で小学校へは遠くなりバスに乗って行く様になりましたが、バス停が阪急伊丹駅(現在は位置が変わっています)の前で、その側に新聞、雑誌を販売している小さな売店があり、平置きした三共のピーナツ・シリーズ(¥30*1/150)の10種類程がいつも置いてあり、帰りに見るのを楽しみにしていましたが、殆ど見るだけで滅多に買えませんでした。お金を貯めて最初に買ったのはピーナツ・シリーズの97式艦上攻撃機(部品数7点/30円)でした。

正月に親戚と一緒に阪急デパートに行きましたが、オモチャ売り場の一角が黒山の人だかりになって、そこだけが明るい感じでした。

人の間を掻き分けてケースの中に最初に見たのはモノグラムのB-25で、今まで見た事も無い様な外国製のプラモデルが、ショー・ケースの中で宝石の様に飾られていました。

それは例えれば軽自動車しか知らない人が、フェラーリやランボルギーニを見る様な物で、あまりのパッケージ・デザインのカッコ良さに僕はカルチャー・ショックを受けました。

その時は、マルサンの飛燕(1/50*¥250)を親戚に買って貰いましたが、外国製プラモデルのショックは中学生になってから当時の日本製との余りの出来の違いに気が付くのでした。

小学生の僕にはその違いは分かりませんでしたし、いつも僕のポケットには¥5~10しかないのでピーナツ・シリーズを買うのも大変でした。どうにか年に2~3機のプラモデルを買っていましたが、正月しかマルサンのモデルは買えませんでした。5年生の正月に阪急デパートに行ってマルサンの疾風(1/50*¥280)を母に買って貰いました。

6年生の時に京都府宇治市の伊勢田町に転勤しましたが、一軒だけ模型店があり、そのお店で最初に買ったのはLS社の彗星(1/75*¥100)でした。小学6年になるとマルサンの1/100シリーズ(¥50~¥70)を集めていて、そのお店でよく買っていましたが、買えたのは数機だけでした。小学生の頃はプラモデルを買うのが精一杯で、塗料は5年生の時に買った缶入りの黒色が1色だけで、シンナーを知らなかったのでラッカーは少しの間しか使えませんでした。

中学生の生活は香川県観音寺市から始まりました。

自然の良さはありましたが、プラモデルに関しては本当に後進国で、いつも観音寺市内の数件の文房具店とか市内に一軒ある模型店に行ってましたが、外国製のプラモデルは無くて同じような日本製のプラモデルしか置いていなくて、それを買っていました。

香川県に住んでいた6年間(中学/高校)は、プラモデルと音楽に渇望した時期でした!!

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矢野雅幸(やの まさゆき)
大学卒業後、CBSソニーレコード(当時)に入社。27歳で独立、フリーのデザイナーとして「ビタミンスタジオ」を設立。数多くのアーティストのレコード、CDジャケットのデザインを手懸けている。その後東京 南青山の骨董通りにデスクトップ/ミュージアムモデル専門店「ウイング クラブ」をオープン。この種のモデルの国内における認知を高めると共に、独自のジャンルとして定着させた。