矢野雅幸ブログ

ヒコー少年回想録3

投稿日時:2016/05/13(金) 10:27

中学生から高校生の時が屈託無くプラモデルを作れた時でした。

京都府宇治市伊勢田町から香川県観音寺市に移転して、最初に市内で探したのはプラモデル店と本屋でしたが、どちらも僕の満足するお店では在りませんでした。

この頃になると、プラモの箱絵や解説書以外の塗装を試したくなり、貸本屋の少年雑誌に載っている特集記事や口絵を集め、中学生の時に発売されたピラー社のラッカーを買いましたが、限られた御小遣いの中ではプラモを買うのが先でした。

ラッカーの各色を集めるのは無理で、基本色の5色(黒、白、赤、黄、青)とシンナーを買い、航空雑誌に載っていた色の配合表で、それまで分らなかったオリーブ・ドラブやダッグ・エッグ・グリーン等の色を作る事が出来ました。

中学生の時に本屋に注文してから約1ヶ月間待って、一冊のプラモ・ガイド(¥150)が届いて、それ以降はプラモ・ガイドが僕のバイブルになり、今でも全冊を持っています。

中学生の時は日本製のプラモで1/70~1/75スケールをメインに作っていましたが、そのスケールのプラモは¥100(外国製は同スケールで¥200~¥280)で、僕の経済力ではそれらのニチモ、三和、マルサン等のプラモを買うしか無かったのです。

高校生になってからは、僕のお気に入りはLS社の1/75シリーズでしたが、久々に発売された隼二型を作り、LS社の新製品を待ちましたが、この会社は新製品の広告は早く出るのに、製品は何ヶ月も待ってから観音寺市の模型店に入荷するのが常でした。

高校生になって、それまで買えなかった米国レベル社が日本のグンゼ産業と提携した結果、レベル社の1/72(¥240)プラモは¥100になりました。

それ以降は1/72スケールの中心はグンゼ/レベルになりましたが、このシリーズのニューポールとアルバトロスを作ったお蔭で、第一次大戦の複葉機を多数作って、一時期は第一次大戦中と大戦以前の複葉機にハマッテしまい、他のメーカーの複葉機も作りました。

中学3年の時から1/50と1/48はマルサン(リンドバーグ/ホーク/モノグラムのコピー・モデル)の安いプラモを買っていましたが、1/48のP-51D(ホークのコピー)をギラー少佐の赤色(当時は赤でしたが、本当はオリーブ・ドラブ)と銀色、機首のチェッカー、胴体のCYGのレタリング等、無謀にも全て筆塗りで挑戦した事もありました。

高校1年の正月に多度津の母の実家で予想以上のお年玉を貰い、丸亀駅の近くの路地裏に、趣味が高じて家の一部で模型店を開いている変わった店主の居る模型店でしたが、その店では一番高価なモデルは奥のケースの目立つ所に飾っていて、夢にまで見た念願のモノグラム社のP-51Dムスタング(1/32¥1200)を買いました。

このプラモは、キャノピーは開閉可能で胴体下のダイヤルを廻すと主脚と尾脚が連動して主翼と胴体に収まるし、ダイヤル側の左右のレバーを動かすと左右翼下の爆弾が落ちました。当時の日本のプラモデルでは可動が流行っていましたが、どのプラモもモノグラム社の比では有りませんでした。

高校2年の夏休み前から作っていたグンゼ/レベルのMe109E(1/72)を、ある航空雑誌に載っていた海洋塗装(?)にして東京で開催されたオールジャパン・レベル・コンテストの高校生/一般の部で応募しましたが、忘れた頃に桐の箱に入った銅賞の賞状とメダルが送られてきました。僕のプラモデル歴の中で、最初で最後の受賞となりました。

受賞したモデルはアメリカに送られて持っていませんが、中、高生の時に作ったプラモの一部は、今でも実家に置いています。

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矢野雅幸(やの まさゆき)
大学卒業後、CBSソニーレコード(当時)に入社。27歳で独立、フリーのデザイナーとして「ビタミンスタジオ」を設立。数多くのアーティストのレコード、CDジャケットのデザインを手懸けている。その後東京 南青山の骨董通りにデスクトップ/ミュージアムモデル専門店「ウイング クラブ」をオープン。この種のモデルの国内における認知を高めると共に、独自のジャンルとして定着させた。