矢野雅幸ブログ

2017/06/27 ヒコー少年回想録12

宇高連絡船で話しかけて来た人は30代の長距離トラック・ドライバーでした。その人と話している内に分ったのですが、大阪に荷物を陸送していたのです。僕の行き先を聞いて、その人は親切にも僕を助手席に、自転車を荷台に載せて伊丹まで送ってくれました。

観音寺市から伊丹市まで約250Kmなので、自転車で2日を予定していましたが、その日の夕方に伊丹市の緑ヶ丘に着きました。

伊丹の緑ヶ丘小学校4~5年生時の友達には連絡してなかったのですが、突然に会いに行ったにも関わらず他の友達も呼ぶことになって翌日に会う事になり、その夜は母の親戚宅に泊めて貰いました。

翌日は朝から友達3人と一緒に、緑ヶ丘の自衛隊に置いて在るT−6テキサン(二人乗り練習機)に乗って記念写真を撮り、その後で緑ヶ丘小学校時代の担任だった谷本先生(人格者で、後に校長になった)に会いに行きました。谷本先生は丁度プールで子供達の指導をしていて、久し振りの再会にとても喜んでくれました。伊丹には3日居ましたが、伊丹空港に行きましたが、当時の空港はのんびりしていて待合室も誰も居なくて無人駅の様でした。待合室の建物と新聞社格納庫の間に入って行けましたので、駐機していたデハビランド・ダブ(イギリス製双発短距離旅客機)の前に自転車を置いて写真を撮れるぐらい自由でした。翌日、尼崎の兄(異母兄弟)の会社寮に2泊させてもらい、その間に小学4年生の時に見た、梅田の阪急デパートのプラモデル売り場に行きましたが、そこには流行のスロット・レーシング・カーがメインで、他のプラモデルは小学生の時に見た売り場とは全然違っていました。

スロット・レーシング・カーのサーキットを店員に聞いたところ、

阪急デパートの裏に在ると言うので行きましたが、サーキットは見た事が無い広さでサーキットが2つ在り、休日でも無いのに人で混み合っていました。当時としては10分間¥100(レンタ・スロット・カー含む)は非常に高い料金でしたが、一度レーンを走らせて見ると、面白くて高いと思いながら何度か遊びました。

どうしても自分専用のスロット・レーシング・カーが欲しくなり、コグレのフェラーリ158F1(1/24と表記しているが、実際は1/20位・¥800)を買ってしまい、夜にキットを組み立て、次の日もサーキットに行きました。

当時、スロット・レーシング・カーはブームで、日本の各模型会社

(タミヤ、ハセガワ、マルサン、コグレ、ニチモ、イマイ、大滝、童友社、学研)は次々と新モデルを発売しましたが、殆どの模型会社はアメリカ製(コックス/マグネシュウムのシャシー+ホイールは製造の難しさとコスト高で他社は作って無い!、モノグラム、レベル、K&Bはアルミ・シャシー+ホイール、ETC)の模倣でしたが、価格は外国製より1/2~1/3と安かったです。

タミヤはブームの終り頃にアルミ・ダイキャスト製サイド・ワインダー方式(モーターを進行方向に対して横に置く、当時はモーターを縦に置くイン・ラインが普通だった)で優秀なシャシーを造りました。

元々はイギリスで生まれて、アメリカでブームになってから、日本でブームになりましたが、何処かの教育委員会(最近も、裸足のゲンの閲覧を制限する暴挙に出た教育委員会が、まだ存在していた!)が青少年の非行(?)に繋がると言う事を言い出して、サーキットへの出入を禁止した事で、急速にブームは去りました。 

                            続く

2017/06/27 ヒコー少年回想録11

今回は高校1年時の夏休みに自転車旅行した話しです。

1965年に多度津工業高校に入学して、最初に専門課程の授業を受けた時に場違いな所に来てしまったなと言うのが、僕の第一印象でした。

中学3年の時、クラス・メートだった下駄屋の息子と先生の息子と僕の三人で、高校1年の夏休みに自転車で東京に行こうと、三人の誰からとも無く言い出して話しが決まり、夏までに自転車と旅費を揃えようと言う事になりました。

高校へは汽車通学だったので駅まで20分くらい歩く必要があり、親に自分用の自転車が必要だと力説しました。恐らく母は僕が登校拒否やグレたらマズイと思ったのか、意外と簡単に賛成してくれ、母の妹の節子さんに丸亀市の自転車屋を探してもらって、多度津から節子さんとバスで行きましたが、丸亀市の郊外に在る自転車屋でした。その自転車屋は僕の予想に反してドロップ・ハンドルのサイクリング車を多数展示販売していて、店主の自転車はマニアらしく多くのスペシャル・パーツを付けていました。

僕の計画では8月までに自転車を手に入れて旅費をどうにか貯める予定でしたが、一番のハードルだった自転車が思っていた以上のドロップ・ハンドルのサイクリング車で、予想外でした。

予算が限られていたので、僕が選んだのはナショナル自転車のメタリック・グリーンで4段変速でしたが今までの自転車に比べると、急にスポーツ・カーに乗った様な感じで、全てが僕の知っている自転車とは違っていましたが、慣れる為にそのお店から約25Km離れた観音寺市まで帰りました。それからは旅行準備の為にパーツを付ける度に往復50Kmを走っていましたが、途中に鳥坂(トッサカと言う、昔から坂のお店で鳥坂饅頭を売っている)が在り、その坂を越えるのは毎回キツカッタ!

夏休み前に二人に連絡をしたところ、二人とも何も準備していなくて、僕一人で行く事になりましたが、子供の時に汽車の乗換時に上野駅で待った記憶しか有りませんので、住んだ事の在る大阪(伊丹)と京都(宇治)の友達に会いに行く事にしました。

夏休みになってから7月は家に居て、僕の旅行は8月に決めていましたが兄に旅行の事は話しておきました。

8月に多度津の母の実家に泊まりに行って僕の旅行が始まりましたが、僕の手持ちは¥2500しか無くて、ナオエお祖母ちゃん(母の実母)に旅行の話しをしたら旅費として¥3000くれました。当時はうどんが一杯¥35前後でしたから¥5500の旅費は高校生には過不足有りませんでした。翌朝10時頃に多度津を発って高松から宇高連絡船に乗りましたが、お昼時だったので弁当を食べていた時に隣席の人から話かけられた事で、旅行が予想外の展開になりました。  続く。

2017/06/27 ヒコー少年回想録10

レコード・ジャケット・デザインの仕事で、一度だけ実機の飛行機を使用した1986年頃の話です。

ミュージシャンは角松敏生さんで、それまでに同氏の何枚かのアルバム・デザインをしていましたが、当時の日本のアルバム・カバーで見た事の無かった飛行機のアイデアを出しました。

ビジュアルはマンハッタンの夕景をバックにして、飛行機で角松さんがアクロ飛行をしているシュチエーションでした。

それから機体を探し、ホンダの桶川飛行場に在ったクラリオン・カラーのピッツS2を借りれる事になり、撮影日に桶川飛行場に行って実機を見ましたが、ピッツS2は複葉アクロバット専用の非常に小型の機種で、機体の殆どが航空ベニヤとハフ(布)張りで出来ていてコクピットに乗降りするのにも注意する必要があり、不用意に力を入れると壊れそうな機体でした。

撮影は順調に進み、撮影後のポジ・フィルム選びとレイアウトはすんなりと決り、コンピューターでマンハッタンとピッツS2を合成して馴染ませるのに相当時間が掛りましたが、アルバム・カバーは完成しました。

当時としては珍しかった、日本橋に在る会社のコンピューターを84年頃から使用していましたが、コンピューター本体は軍事用のイスラエル製で3億円、ソフトはイギリス製で2千万円と言ってました。現在ではパソコンで出来る作業ですが、80年代は使用料が高額だったので、一部のデザイナーと一部の会社しかコンピューターを使用していたのではないかと思いますが、コンピューターと携帯電話は普通の価格では無かったですね!

その後、撮影に使ったクラリオンのピッツS2が新聞に衝撃的な写真と記事が載っていて、全日空のパイロットが背面飛行した時に、地面に背面のままで不時着した写真が載っていましたが、パイロットはケガはしたそうですが、助かりました。

クラリオン・カラーのピッツS2は、撮影した機体とは別に、もう1機在りましたが、海に墜落したそうです。

ピッツには複座も有りますが、どちらにしても乗りたく無い機体の1機です。

 

2017/06/27 ヒコー少年回想録9

最初に所有したMGミジェットから乗り換えたケーターハム・スーパー・セブン(OHV/1.6/110HP)は、オーダーから1年6ヶ月以上待って1983年10月に納車されました。

その時から僕はセブン教(?)の熱心な信者になり、いつの間にかセブンの狂信者になってしまいました。当時のセブン所有者は完全にマイノリティで、セブンの狂信者は僕の周りには沢山いて、それだけセブンは半端ではない強烈な印象をドライバーに与える車でした。

元々はロータス(エンブレムは蓮の中にACBCの名前の頭文字)のアンソニー・コーリン・ブルース・チャップマンが造ったセブンを、ケーターハム社のグラハム・ニアーンが製造権を得てロータス・セブンS3(S2はカルトTV番組「プリズナー6」の主人公が乗っていて有名です)をベースに、ロータス・ツインカム・エンジンやOHVの数種類のエンジンを選べて搭載していました。イギリスでは税金の為にキット・カーで販売されましたが、日本には完成車で輸入されました。

僕の2台目のセブン(コスワース4バルブ/1.6/155HP)は、1台目で作りたいセブンのアイデアが固まっていたので、パーツを買いにイギリスのケーターハム本社に行って、ショート・コクピット・ボディ、スペシャル・ボンネット、アルミ・ノーズ、サイクル・フェンダー、リア・フェンダー、LSD(リミテッド・スリップ・デフ)、ドライサンプ・キット、アーム類等、その他必要なパーツをブッシュ類やボルト類からワッシャまで多数購入して、約4ヶ月後に航空便で2個の大きい木箱で送られて来ました。

組み立てはセブンのオーナーでもある、シルバーストーン・ガレージの花村さんに頼みました。

新しいボディは、最初にアルミ・ボディ・フレームを裏返して底のアルミ・リベットを何箇所か外して、パイプ・フレームにエンジン・オイルを流し込んで5日間熟成(?)させてからオイルを抜き組み立てました。

僕は2週間殆どデザインの仕事をしないで、工場に入浸りで手伝っていましたが、耐圧ホース、ステンレス・ホース・バンド等が無い時は都内を探して揃えていました。何か足らないパーツが有れば直ぐに探して間に合せていました。全てのボルト、ナット、ワッシャはメッキして、カム・カバー等その他見えない所まで組み付けましたが、手伝っていて一番大変だったのはサイクル・フェンダーのステーを短く詰める作業で、夕方から花村さんと僕で作業に取り掛かりましたが、ステーを短くする度に、タイヤ付のホイールを装着する必要があり、気が付くと夜中になっていて疲れましたが、どうにか終わりました。

その他、色々な作業と問題をその度に解決して20日間で完成しました。シェイクダウン・テストは、あるセブン専門店の誘いで富士スピード・ウェイ・サーキットで行いました。僕のセブンは軽量化をして、通常のウィンド・スクリーン、ワイパー・モーター、幌骨、スペア・タイヤ等を下ろして、車重は約530Kg位なのでコスワース・エンジンの155馬力は、普通車の半分以下の重量なのとエンジン・パワーは充分で、まるで50年代のレーシング・カーを公道で走らせている様な車でした。

僕は3台目になるスーパー・セブン(ツイン・カム/126hp)を2台目のセブンを作り上げた後で、友達から買ったクラムシェル・フェンダーのツイン・カム・エンジンのセブンは改造しないで、幌を張って通勤に使っていましたが、もう1台のコスワース・エンジンのセブンは箱根に行く時に乗りました。

普通のスポーツ・カーはスニーカーで、スーパー・セブンは裸足に例えられていて、運転の全てがダイレクトで、車重の軽さがエンジン・パワーのバランスで、いかに面白い車になるかのスーパー・セブンは良い見本だと思いましたが、安全面は50年代のレーシング・カーと同じでした。

僕はスーパー・セブンで車の基本的な構造を学び、ヒール・アンド・トゥ(クラッチを踏みブレーキ、アクセル、シフトを同時に操作する)、スピン・ターン(LSDが付いて無いと出来ない)、カウンター・ステア等のテクニックを覚えましたと言うより、最低限のテクニックを身に付けないと、セブンをスムーズに速く走らせる事は出来ませんでした。セブンに乗る時は、帽子とヘルメットは必要で、レーシング・スクリーンを付けていると、時々、他車が飛ばした石が当たる事があるのです。

足元のペダル間隔はレーシング・カー並みに狭いので、レーシング・シューズは必須で、春夏秋冬ドライビング・グローブは常に使用していました。

僕はアメリカ海軍のHGUタイプ・ヘルメット(ダブル・バイザー)を改造して、内部にヘッドフォンを取り付けてウォーク・マンを聞けました(勿論、曲はハイウェイ・スター、ワイルドで行こう等)。センター・トンネルをアルミのままにしていたので、夏の昼間は暑い(熱い)のでポロ・シャツ、夜はジャンパーが必要でした。冬は寒さとの闘いで、其れなりの服装(A2ジャケット、セーター、マフラー、オートバイ用グローブ)を着ているのですが、走行中はヒーターの熱は全て吸い出され、寒かった! 

しかし、春と秋の晴天の日は箱根をスーパー・セブンで走るのは、スーパー・セブンでしか味わえない世界で最高に気持ち良かった!     

2017/06/27 ヒコー少年回想録8

レコード・ジャケット専門のデザイン・スタジオを創立した時の1983年の話です。

原宿交差点から歩いて2~3分の所に、ビタミン・スタジオを開きましたが、最初は僕と留守番で頼んだコピーライターとで始まりました。CBSソニーも含めて、以前から知っていた東芝EMI、ビクター、ワーナー・パイオニア等のレコード会社に売り込みに行きました。以前、一緒に仕事をした事のあるワーナー・パイオニアのミュージック・ディレクターの瀬戸さん(現音楽会社社長)を訪ねて、新しくスタジオを作った事を伝えたところ、意外な返事が返って来ました。今から矢沢さんに会いに行こうと言われましたが、僕は一瞬、以前アルバム・デザインをしたアリスの矢沢透氏かと思いましたが、瀬戸さんが矢沢永吉さんだよと言い直しました。

僕と瀬戸さんはタクシーで表参道交差点に向かいました。矢沢さんの事務所は交差点の直ぐ近くのマンションに在り、瀬戸さんが事前に連絡を入れていたので、事務所に入ると矢沢さんが待っていて瀬戸さんが僕を紹介すると、矢沢さんは聞き覚えのある調子の「ヨロシク!」と言って僕と握手をしてから、新しいアルバムの話を始めました。

その約10年前に、リブ・ヤングでキャロルを見た時に感じたのはビートルズの曲を完全にキャロル(その時は確かメドレーでスロー・ダウンとロング・トール・サリー等のメドレーだった思います)のモノにしていて、ハーモニーも完全にロックしてました。

もし、僕が音楽プロデューサーだったら、直ぐにテレビ局に電話して交渉するぐらいイカシてました。キャロルと同様に凄いなと思ったバンドは、シーナ・アンド・ロケッツでアメリカから帰って来て数ヶ月で、知り合いのイラスト・レイターの紹介で下北沢の地下のライブ・ハウスで見ましたが、お客は僕を含めても5~6人しか居ませんでした。

最初は鮎川誠氏は白のテレキャスターを弾いていて、途中から黒のレス・ポールに持ち替えゴキゲンな音を出して、それに絡むシーナさんのボーカル「レモン・ティー」はジャスト・フィットしていて、こんな凄いバンドが日本に居る事に驚きました。

矢沢さんの新アルバムの撮影は、世田谷通り農大近くの109スタジオで、充分過ぎる位のスタジオ室内の広さでしたが、撮影が始まるとそれは危惧だと分りました。PAをスタジオに持って来て、実際に歌っている所を撮影して、自然な表情とポーズを撮っていましたが横で見ていても迫力が有り、本当に汗をかいていたのです。

約25年ほどデザイナーをして、様々なミュージシャンのレコード・ジャケットのデザインをしましたが、PAを持ち込んで歌って汗をかいた人は矢沢さんだけでした。

矢沢永吉さんの仕事をするキッカケを作ってくれたのが、北原照久さんでした。アメリカから帰って来てから、北原さんが僕の仕事を心配してペドロ&カプリシャスのペドロさんを紹介してくれて、アルバムのデザインをしました。その時のミュージック・ディレクターが瀬戸さんで、北原さんに矢沢さんの仕事をするチャンスを作って貰いました。

ビタミン・スタジオを開いてから、程なく矢沢さんの会社が僕のスタジオから50mと離れてない、有名なマンションに引っ越して来ました。打ち合わせには歩いて5分以内で行けたので、よく矢沢さんのスタッフと打ち合わせをしていました。

矢沢さんからレコード・ジャケット以外に、コンサート用販売パンフレット、チケット、ポスター、カレンダー、タオル等のデザインとヤザワ・クラブの会報を依頼されました。

秋にシングル盤「ラスト・クリスマス・イブ」の打ち合わせで、矢沢さん事務所に行きましたが、矢沢さんがシングルのデモ・テープを探したのですが見つからなくて、矢沢さんが僕をブースに連れて行って、そこに在ったギターを抱えて「矢野、こんな感じの曲だから」と言って弾きながら歌いました。

ブースには矢沢さんと僕だけで、スーパー・スターの歌を目の前で、しかも一人で聞けました! しかも、矢沢さんがギターをトチッテ何か人間的な感じがしました。

矢沢さん、瀬戸さん、僕で新作アルバムの打ち合わせの時に、矢沢さんから「矢野は何処の出身か?」と聞かれて、「香川県の観音寺市という所ですが」と言った途端、矢沢さんが急に、日本で原爆を落としたい所が2ヶ所あるが、瀬戸(福岡県の炭鉱町)と矢野(漁師町)の町だぞと云われました。理由を聞いたところ、矢沢さんがソロになってから全国を回っている時に、客が暴れて演奏を中断した会場が、偶然にも瀬戸さんと僕の町でした!!

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