矢野雅幸ブログ

2017/04/28 ヒコー少年回想録10

レコード・ジャケット・デザインの仕事で、一度だけ実機の飛行機を使用した1986年頃の話です。

ミュージシャンは角松敏生さんで、それまでに同氏の何枚かのアルバム・デザインをしていましたが、当時の日本のアルバム・カバーで見た事の無かった飛行機のアイデアを出しました。

ビジュアルはマンハッタンの夕景をバックにして、飛行機で角松さんがアクロ飛行をしているシュチエーションでした。

それから機体を探し、ホンダの桶川飛行場に在ったクラリオン・カラーのピッツS2を借りれる事になり、撮影日に桶川飛行場に行って実機を見ましたが、ピッツS2は複葉アクロバット専用の非常に小型の機種で、機体の殆どが航空ベニヤとハフ(布)張りで出来ていてコクピットに乗降りするのにも注意する必要があり、不用意に力を入れると壊れそうな機体でした。

撮影は順調に進み、撮影後のポジ・フィルム選びとレイアウトはすんなりと決り、コンピューターでマンハッタンとピッツS2を合成して馴染ませるのに相当時間が掛りましたが、アルバム・カバーは完成しました。

当時としては珍しかった、日本橋に在る会社のコンピューターを84年頃から使用していましたが、コンピューター本体は軍事用のイスラエル製で3億円、ソフトはイギリス製で2千万円と言ってました。現在ではパソコンで出来る作業ですが、80年代は使用料が高額だったので、一部のデザイナーと一部の会社しかコンピューターを使用していたのではないかと思いますが、コンピューターと携帯電話は普通の価格では無かったですね!

その後、撮影に使ったクラリオンのピッツS2が新聞に衝撃的な写真と記事が載っていて、全日空のパイロットが背面飛行した時に、地面に背面のままで不時着した写真が載っていましたが、パイロットはケガはしたそうですが、助かりました。

クラリオン・カラーのピッツS2は、撮影した機体とは別に、もう1機在りましたが、海に墜落したそうです。

ピッツには複座も有りますが、どちらにしても乗りたく無い機体の1機です。

 

2017/04/28 ヒコー少年回想録9

最初に所有したMGミジェットから乗り換えたケーターハム・スーパー・セブン(OHV/1.6/110HP)は、オーダーから1年6ヶ月以上待って1983年10月に納車されました。

その時から僕はセブン教(?)の熱心な信者になり、いつの間にかセブンの狂信者になってしまいました。当時のセブン所有者は完全にマイノリティで、セブンの狂信者は僕の周りには沢山いて、それだけセブンは半端ではない強烈な印象をドライバーに与える車でした。

元々はロータス(エンブレムは蓮の中にACBCの名前の頭文字)のアンソニー・コーリン・ブルース・チャップマンが造ったセブンを、ケーターハム社のグラハム・ニアーンが製造権を得てロータス・セブンS3(S2はカルトTV番組「プリズナー6」の主人公が乗っていて有名です)をベースに、ロータス・ツインカム・エンジンやOHVの数種類のエンジンを選べて搭載していました。イギリスでは税金の為にキット・カーで販売されましたが、日本には完成車で輸入されました。

僕の2台目のセブン(コスワース4バルブ/1.6/155HP)は、1台目で作りたいセブンのアイデアが固まっていたので、パーツを買いにイギリスのケーターハム本社に行って、ショート・コクピット・ボディ、スペシャル・ボンネット、アルミ・ノーズ、サイクル・フェンダー、リア・フェンダー、LSD(リミテッド・スリップ・デフ)、ドライサンプ・キット、アーム類等、その他必要なパーツをブッシュ類やボルト類からワッシャまで多数購入して、約4ヶ月後に航空便で2個の大きい木箱で送られて来ました。

組み立てはセブンのオーナーでもある、シルバーストーン・ガレージの花村さんに頼みました。

新しいボディは、最初にアルミ・ボディ・フレームを裏返して底のアルミ・リベットを何箇所か外して、パイプ・フレームにエンジン・オイルを流し込んで5日間熟成(?)させてからオイルを抜き組み立てました。

僕は2週間殆どデザインの仕事をしないで、工場に入浸りで手伝っていましたが、耐圧ホース、ステンレス・ホース・バンド等が無い時は都内を探して揃えていました。何か足らないパーツが有れば直ぐに探して間に合せていました。全てのボルト、ナット、ワッシャはメッキして、カム・カバー等その他見えない所まで組み付けましたが、手伝っていて一番大変だったのはサイクル・フェンダーのステーを短く詰める作業で、夕方から花村さんと僕で作業に取り掛かりましたが、ステーを短くする度に、タイヤ付のホイールを装着する必要があり、気が付くと夜中になっていて疲れましたが、どうにか終わりました。

その他、色々な作業と問題をその度に解決して20日間で完成しました。シェイクダウン・テストは、あるセブン専門店の誘いで富士スピード・ウェイ・サーキットで行いました。僕のセブンは軽量化をして、通常のウィンド・スクリーン、ワイパー・モーター、幌骨、スペア・タイヤ等を下ろして、車重は約530Kg位なのでコスワース・エンジンの155馬力は、普通車の半分以下の重量なのとエンジン・パワーは充分で、まるで50年代のレーシング・カーを公道で走らせている様な車でした。

僕は3台目になるスーパー・セブン(ツイン・カム/126hp)を2台目のセブンを作り上げた後で、友達から買ったクラムシェル・フェンダーのツイン・カム・エンジンのセブンは改造しないで、幌を張って通勤に使っていましたが、もう1台のコスワース・エンジンのセブンは箱根に行く時に乗りました。

普通のスポーツ・カーはスニーカーで、スーパー・セブンは裸足に例えられていて、運転の全てがダイレクトで、車重の軽さがエンジン・パワーのバランスで、いかに面白い車になるかのスーパー・セブンは良い見本だと思いましたが、安全面は50年代のレーシング・カーと同じでした。

僕はスーパー・セブンで車の基本的な構造を学び、ヒール・アンド・トゥ(クラッチを踏みブレーキ、アクセル、シフトを同時に操作する)、スピン・ターン(LSDが付いて無いと出来ない)、カウンター・ステア等のテクニックを覚えましたと言うより、最低限のテクニックを身に付けないと、セブンをスムーズに速く走らせる事は出来ませんでした。セブンに乗る時は、帽子とヘルメットは必要で、レーシング・スクリーンを付けていると、時々、他車が飛ばした石が当たる事があるのです。

足元のペダル間隔はレーシング・カー並みに狭いので、レーシング・シューズは必須で、春夏秋冬ドライビング・グローブは常に使用していました。

僕はアメリカ海軍のHGUタイプ・ヘルメット(ダブル・バイザー)を改造して、内部にヘッドフォンを取り付けてウォーク・マンを聞けました(勿論、曲はハイウェイ・スター、ワイルドで行こう等)。センター・トンネルをアルミのままにしていたので、夏の昼間は暑い(熱い)のでポロ・シャツ、夜はジャンパーが必要でした。冬は寒さとの闘いで、其れなりの服装(A2ジャケット、セーター、マフラー、オートバイ用グローブ)を着ているのですが、走行中はヒーターの熱は全て吸い出され、寒かった! 

しかし、春と秋の晴天の日は箱根をスーパー・セブンで走るのは、スーパー・セブンでしか味わえない世界で最高に気持ち良かった!     

2017/04/28 ヒコー少年回想録8

レコード・ジャケット専門のデザイン・スタジオを創立した時の1983年の話です。

原宿交差点から歩いて2~3分の所に、ビタミン・スタジオを開きましたが、最初は僕と留守番で頼んだコピーライターとで始まりました。CBSソニーも含めて、以前から知っていた東芝EMI、ビクター、ワーナー・パイオニア等のレコード会社に売り込みに行きました。以前、一緒に仕事をした事のあるワーナー・パイオニアのミュージック・ディレクターの瀬戸さん(現音楽会社社長)を訪ねて、新しくスタジオを作った事を伝えたところ、意外な返事が返って来ました。今から矢沢さんに会いに行こうと言われましたが、僕は一瞬、以前アルバム・デザインをしたアリスの矢沢透氏かと思いましたが、瀬戸さんが矢沢永吉さんだよと言い直しました。

僕と瀬戸さんはタクシーで表参道交差点に向かいました。矢沢さんの事務所は交差点の直ぐ近くのマンションに在り、瀬戸さんが事前に連絡を入れていたので、事務所に入ると矢沢さんが待っていて瀬戸さんが僕を紹介すると、矢沢さんは聞き覚えのある調子の「ヨロシク!」と言って僕と握手をしてから、新しいアルバムの話を始めました。

その約10年前に、リブ・ヤングでキャロルを見た時に感じたのはビートルズの曲を完全にキャロル(その時は確かメドレーでスロー・ダウンとロング・トール・サリー等のメドレーだった思います)のモノにしていて、ハーモニーも完全にロックしてました。

もし、僕が音楽プロデューサーだったら、直ぐにテレビ局に電話して交渉するぐらいイカシてました。キャロルと同様に凄いなと思ったバンドは、シーナ・アンド・ロケッツでアメリカから帰って来て数ヶ月で、知り合いのイラスト・レイターの紹介で下北沢の地下のライブ・ハウスで見ましたが、お客は僕を含めても5~6人しか居ませんでした。

最初は鮎川誠氏は白のテレキャスターを弾いていて、途中から黒のレス・ポールに持ち替えゴキゲンな音を出して、それに絡むシーナさんのボーカル「レモン・ティー」はジャスト・フィットしていて、こんな凄いバンドが日本に居る事に驚きました。

矢沢さんの新アルバムの撮影は、世田谷通り農大近くの109スタジオで、充分過ぎる位のスタジオ室内の広さでしたが、撮影が始まるとそれは危惧だと分りました。PAをスタジオに持って来て、実際に歌っている所を撮影して、自然な表情とポーズを撮っていましたが横で見ていても迫力が有り、本当に汗をかいていたのです。

約25年ほどデザイナーをして、様々なミュージシャンのレコード・ジャケットのデザインをしましたが、PAを持ち込んで歌って汗をかいた人は矢沢さんだけでした。

矢沢永吉さんの仕事をするキッカケを作ってくれたのが、北原照久さんでした。アメリカから帰って来てから、北原さんが僕の仕事を心配してペドロ&カプリシャスのペドロさんを紹介してくれて、アルバムのデザインをしました。その時のミュージック・ディレクターが瀬戸さんで、北原さんに矢沢さんの仕事をするチャンスを作って貰いました。

ビタミン・スタジオを開いてから、程なく矢沢さんの会社が僕のスタジオから50mと離れてない、有名なマンションに引っ越して来ました。打ち合わせには歩いて5分以内で行けたので、よく矢沢さんのスタッフと打ち合わせをしていました。

矢沢さんからレコード・ジャケット以外に、コンサート用販売パンフレット、チケット、ポスター、カレンダー、タオル等のデザインとヤザワ・クラブの会報を依頼されました。

秋にシングル盤「ラスト・クリスマス・イブ」の打ち合わせで、矢沢さん事務所に行きましたが、矢沢さんがシングルのデモ・テープを探したのですが見つからなくて、矢沢さんが僕をブースに連れて行って、そこに在ったギターを抱えて「矢野、こんな感じの曲だから」と言って弾きながら歌いました。

ブースには矢沢さんと僕だけで、スーパー・スターの歌を目の前で、しかも一人で聞けました! しかも、矢沢さんがギターをトチッテ何か人間的な感じがしました。

矢沢さん、瀬戸さん、僕で新作アルバムの打ち合わせの時に、矢沢さんから「矢野は何処の出身か?」と聞かれて、「香川県の観音寺市という所ですが」と言った途端、矢沢さんが急に、日本で原爆を落としたい所が2ヶ所あるが、瀬戸(福岡県の炭鉱町)と矢野(漁師町)の町だぞと云われました。理由を聞いたところ、矢沢さんがソロになってから全国を回っている時に、客が暴れて演奏を中断した会場が、偶然にも瀬戸さんと僕の町でした!!

2017/04/28 ヒコー少年回想録7

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1988年の8月に友達と僕の3人でイギリスに行った話しです。

ある英国の車雑誌にロータス・ミーティングがドニントン・パーク・サーキットで開催と載っていたので、スーパー・セブンに乗っている二人の友達を誘いました。一人は英国テイジンに2年半程行っていたセブン・オーナーで、彼はイギリス英語が喋れたので色々な場所で通訳として助けてくれました。

もう一人はIBMに勤めていて、スーパー・セブンは2台目のオーナーでした。3人共車が好きなのでロータス・ミーティングのあるドニントンに行く間に、車関係の会社や工房に行こうと言う事で話が纏まりました。僕はそれまでに2回イギリスに行っていましたが、何時も入国審査に時間が掛るので、一計を案じてイミグレーション・オフィサー用にロータス・ミーティング記事のコピーを持って行きました。

ヒースロー空港に着いて、何時ものように長い列に並んで入国審査を待ちました。僕の番が来てイミグレーション・オフィサーが何時ものように‘目的は?’と聞かれたので例のコピーを見せたところ直ぐにスタンプを押してくれました。イギリス人ならロータスを知らない訳が無いと思ったのは正解でした。

ロンドンでレンタカーを借りて最初に行った所は、勿論!サリー州

ケイターハム・ヒルズに在るスーパー・セブンの聖地、ケイターハム・カーズ(現在はケント州に在る)でした。

次に行ったのはクラシック・ロータスで有名なマイク・ブラザーフッドの所に行きました。僕達はお店だと思って探していましたが、見つけたのは普通の家の納屋で昔のロータス車を修復している所でした。

次はTVRに行きましたが、思っていたより小さい場所でタスカンが一台在りましたが、それだけでした。

次に行った所はマーコス社でしたが、社長が会ってくれて工場を見せて貰いましたが、マーコスGT(ボディはグラス・ファイバー)のバルク・ヘッドに木を使っているのは、いかにもイギリスぽい感じがしました。

翌日のドニントン・パーク・サーキットの駐車場には、昼前に着きましたが、サーキット側の芝生には今迄に見た事の無い数のロータス・エランが並んでいました。しかも、雑誌で見たエランのバンも在りましたが、ロータス・ヨーロッパが殆ど無かったのは不思議でした。元々、ロータス・ヨーロッパはフランス向けの車でミッションはルノー製を使っていましたが、ロンドンでも見た事が無いのでイギリスでは人気が無いのかな?

僕達が驚いたのは、日本では決して観る事が無かったスーパー・セブンのデモンストレーションで、まるでスーパー・セブンが舞を舞っているような感じで、色々な凄いドライブテクニックを披露して、同じセブン乗りとしては凄く刺激になりました。それと、歴史的に貴重なジム・クラーク(60年代のF-1レーサー/現代のアイルトン・セナのような存在)のロータス25を、当時の元メカニックがフル・レストアをして持って来て展示してましたが、イギリス人のF-1の歴史の深さを見ました。

ドニントン・パーク・サーキットで、数年前から知っていたドイツ・セブン・オーナーズ・クラブの副会長に初めて会いました。

彼はレーシング・カーのロータス61(正確では無いかも)を持って来ていて見せて貰いました。ドニントン・パーク・サーキットで知り合ったイギリス人の家に翌日に行く事になり、その日は近くの町に夕方に着きましたが町の商店は閉まっていて、商店街の外れに誘蛾灯のように沢山の電灯を点けているお店に行きました。お店はテンプラ屋で若い女の子の売り子が積極的にテンプラを勧めてくるのです。僕達もお腹がすいていたので各自が何個かテンプラを買って、もう一軒開いていた酒屋で缶ビールとコーラを買ってから歩道の端に在ったベンチに座ってテンプラを一口食べましたが、あまりの不味さに三人とも側のゴミ箱に全部捨てました。

その後、イギリスには何度となく行き、色々なレストランで食べましたが食事は日本食か中華が無難で、イギリスではアメリカのファースト・フードがまともに思えました。

その町で一泊する必要があったのでB&B(漫才のB&Bでは無く!ベッド&ブレック・ファストの略)を探して、パブの上にB&Bを見つけてそこに泊まりました。夜になって3人で階下のパブに食事をしに行きましたが、地方の町だからかも知れませんがパブではあまり歓迎されていない感じの雰囲気で早々に食事(ここも不味かった)をして部屋に戻りました。

2回目にイギリスに行った時に、ビューリー(オート・ジャンブル)の会場で「ジャップ!」と呼ばれたのを思い出しました。

翌日はドニントン・パーク・サーキットで知り合ったイギリス人の家に行きましたが、彼はケイターハム社のスーパー・セブンをフェリーする仕事をしていて、家には2台のスーパー・セブンが置いて有りましたので彼と僕達が2台に分乗して、近くの町に在るストーン・ヘンジ行きましたが、途中の町中では東洋人がスーパー・セブンに乗っている為かジロジロ見られました。

ストーン・ヘンジにスーパー・セブンで近づくにつれて空が怪しい雰囲気になり一時的に激しい雨が降りましたが、イギリス特有の天候で直ぐに雨は上がりましたが、ストーン・ヘンジの側に虹が見えて、何か神秘的な雰囲気でした。

ロンドンに戻る前にロータス社に行きましたが、生憎、夏休み中だったらしくて、工場は閉まっていて見学が出来なくて僕達はガッカリしましたが、僕達は憧れのロータス社の場所に来た記念に何かを持って帰りたくて各自で探しました。僕はロータスの工場の壁に貼っていた駐車禁止のプレートを剥がして(良い子は真似しないで)持って帰りましたが、そのプレートは今でも大切に自宅の壁に飾っています。それにしてもイギリスの車文化の奥深さを知りました。

当時のイギリス車産業は外国資本があまり入っていませんでしたが、現在のイギリス車は殆どが外国資本が入ってしまって、有名なミニもオースチン/レイランド/ローバー・ミニになり、今やBMWミニになりましたが、ロータスも残念ながらアジアのある会社の傘下になりました。

2017/04/28 ヒコー少年回想録6

社会主義と共産主義の国では、西側の国ではあまり経験しない事が普通に起きていたように思いました。ロシアには5~6回行きましたが、90年代後半モスクワの話です。

その時は市内と近郊の街に行きましたが、4日間の滞在(当時のJALは週2便だった)で、1日目はホテルに地方のモデラー2人に夜行列車で来て貰い、究極のモデルのF-86とFw190D-9の途中まで製作したモデルを見ながら打ち合わせをしました。

その時は10月中旬でモスクワは寒かったのですが、ホテルの部屋には暖房は入っていなくて(宿泊客は寒さに強いのかな?)夜は寒さで早くベッドに入り、一晩は我慢しましたが、翌日に通訳のジーマ氏(彼は後に日本人女性と結婚して、現在は日本に在住です)に頼んで部屋にオイル・ヒーターを入れて貰いました。

翌日は、郊外のミュージアムに行きましたが、門の付近に大勢の人が歩いていてジーマ氏が車内に居るように言って、車は門を通りました。このミュージアムはロシアでは有名な場所でしたが、屋外にTu144コンコルドスキーやカスピの怪物等、見た事のある機種が数多く展示されていましたが、西側のミュージアムの屋外展示に比べると、僕には雑多に野ざらしにしている様にしか見えませんでした。

屋内展示の機種では、どうしても触って確かめたい機体があり、そのIL2シュトロモビク(地上攻撃機で空飛ぶタンク)を見つけて、機体下部を触っていた時に軍服の老人が近づいて来て、突然ロシア語でIL2の解説をし始めましたが、殆ど内容は分かりませんでした。

屋内展示機はミグ、ポリカリポフ、ヤク、ラグ等のソビエト、ソ連時代の代表的な機体が在り、マニアにとっては貴重な機種が多く展示されていました。その日は郊外の「星の街」に行きましたが、街に入る所にゲート・ガードのミグ21がデスクトップ・モデルの様に飾られていました。東欧圏諸国とロシアではミグ15、21(ポーランドでは野外展示して在ったミグ21は2000ドル!)は大量生産された機体で、東側の国では街の入り口に飾られているのはよく見ました。

その街では飛行場の横にある建物に行き、モデラー(?)と入口に近い部屋でモデルを見せて貰い、買いたいと言ったら、ここでは渡せないので外の車の中で待つように言われました。

10分ほど待っていると、打ち合わせした人が手提げ袋を目立たないように持って、通用口の係員に見つからないように車まで来て、車の中で商談をしてお金を払いモデルを貰いました。

この日は、夜に現地の編集者と会う約束があったので指定されたレストランに行きましたが、そのお店は着物風?な上着を着た変なウェイトレス嬢がいる日本風のレストランでしたので、3人でスキヤキ(一人前150ドルだった!)を頼みました。ウェイトレス嬢はスキヤキのセットを持って来るなり料理(?)を始めましたが、日本で食べたスキヤキの味と見た目は相当違っていました!

3日目はモスクワ市内に在るモデル・ミュージアムに行き、モデル(殆どがロシア機)を見学させて貰いましたが、展示しているモデルの中で何か売れるモデルは無いのかと聞いたところ、Mig19が2機(ホントカナ?)あるので売ってくれると言い、又もや外の車の中で待ってくれと言われましたので、入り口の正面に置いた車の中から入口を見ていると、前日と同様に手提げ袋にモデルを入れて入口の係員に見えない様に外に出てきて、車内で値段の交渉をしてモデルを買いましたが、これがロシア式の交渉なのかなと思いました。

次に行った所は一軒家で、ドアをノックすると黒のレザージャケット姿の用心棒にしか見えない男性が対応して、ドアを開けるとすぐに部屋になっていて奥の壁のコーナーに大きな机の奥に、今回の打合わせの相手が座っていました。

その人物は、自分から元将軍(?)と名乗ってモデルを送る時は軍の輸送機関を使えると言いましたが、胡散臭い感じがしました。

机の上に置いてあった装甲車のモデルの値段を聞いたら60ドルと言われましたが、色々な話をすると益々怪しく思えましたので、早々にこの場所から去った方が良いと思ったので、机の上にあった装甲車のモデルを買って穏便に帰ろうとして、再度値段を聞いたら240ドルと意外な値段を言われました。さっき迄60ドルと言っていたのに!

仕方なく装甲車のモデルを買ってホテルに帰りました。それまでにも色々な国の模型製作会社とモデラー達に会いましたが、これ程怪しい人に出会ったのはロシアならでの事と思いました。その時の装甲車のモデルは今でも記念に持っています。

4日目は地方から来て貰った、ロシアでは珍しいモデル製作会社社長に会い、持ってきたモデル(Tu144*1/48)を見せて貰いましたが、後に地方都市のこの会社にはドイツから2回行きました。

その日は時間があったので、夕方にジーマ氏と初めてモスクワの地下鉄に乗って初めて赤の広場に行きました。広場と建物は素晴らしいと思いましたが、僕にはキーウェストの方が感動的でした。

帰りにホテルの近くの屋台でジーマ氏が丸いパン(1個20円位)を2個買ってくれましたが、モスクワのレストランやホテルの日本食レストラン(ベトナム人の経営)で食べた物より一番美味しかったのは只の丸いパンでした。

帰りの日はタクシーでシェレメチボ空港に行きましたが、ロシアの空港の出国は最初に係員が手荷物とトランクを空けて調べるので、西側の様にXレイでトランクを透視するのではなくて、係員が目視で荷物やトランクを空けさせて調べるので、相当時間が掛り列に並んで居たら、丁度係員が交代する時間になったらしく、係員が一斉に居なくなると、何列か並んでいた人達が一斉に荷物やトランクを持ってその場を通り過ぎました。

勿論!僕もその場を通り抜けてJALのボーディング・カウンターに行きましたが、そこで発券係のオバチャン(ロシアは働いているオバチャンは厳しい)が、僕の持っていたモデルの箱を機内持ち込みに対してオバチャンはロシア語で何やら言ってましたが、側にいたJALの若いロシア人男性スタッフ(日本語が喋れた)がオバチャンを完全に無視して行かしてくれました。

機内に持ち込むモデルのダンボール箱を持って歩いてたら、黒皮のコート(東側は何時も同じファッションで昔のKGB!)を着た人が僕に近づいて来て、パスポートと箱の中身と幾らドルを持っているかと聞かれましたが、何時もの様に300ドルとカードを見せて

何事も無く待合室に行きました。

西側の国では、こんな質問を受けた事は一度も有りませんがロシア、ウクライナでは何度もありました。それにしても、旧態依然のファッションは如何にかならないのかな! 昔のソ連のKGB(秘密警察)のようでイメージ悪すぎ!!

 

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