矢野雅幸ブログ 2017/5

2017/12/16 ヒコー少年回想録16

高校生の時はバンドとプラモデルと自転車(初めて持った自転車で、プラモを見る事と買う為に片道3時間も苦ではなかった)だけを熱心にやっていましたが、専門の勉強には全然興味が持てなくて、試験はクラスではいつもビリから2~3番を死守(?)していて、完全にオチコボレでした。但し電気回路図は適当に描いていましたが、それだけは点数が良かったです。

3年生になった春頃に、職員室の側を通っている時に中から先生達の会話が聞こえて来ました。内容は何処の会社でも良いから生徒を就職させるという会話でしたが、僕は高校に入学した時から合ってないのが分ったので、1年生の冬休みに他の高校に変わりたくて親と担任に相談しましたが、あと2年で卒業だからと言われて納得させられました。

僕は本能的に、このままではマズイと思い大学に行くと親に言ったところ賛成してくれましたが、それまでに何の準備していなかったので兄に相談して、兄の通っている観音寺一高(映画「青春デンデケデケデケ」の舞台になった高校)の美術の教師を紹介して貰いました。土曜日の午後に面接をして、土曜日と日曜日の午後からデッサンをする為に非公式(正確に言うとモグリです)に美術部に入れて貰いました。

それからの高校生活は目的が出来たので、やっと充実感を得ましたが、余りにも勉強をしていなかったので毎日、多度津工業高校の向かいにある小学校横の町立図書館で勉強して、昼頃になると高校の食堂(汽車通学生が多かったので割りとチャントした食堂だった)に行きクラス・メイトと一緒に食事をしてから図書館に戻り、下校時に合わせて帰っていたら1ヶ月程して、担任の教師から母親が呼ばれて僕が高校に行っていないのがバレて仕舞いました。

当時、朝のテレビ番組で「ヤング720」を7時20分からその番組を見ると汽車(鈍行は1時間に1本しかなかった)に乗り遅れて次の列車で行くと1時間目の授業に間に合わない無いのですが、この番組はいつも色々なバンドが出演していて観るのを楽しみにしていました。

僕が一番印象に残ったバンドはファニー・カンパニーで、桑名正博氏がギブソンES335のブロンド(ナチュラル)でブルースっぽい曲(当時はブルースを知らなかった)のパワー・コードを弾きながら歌っていたのがヤケニ格好良かったのを憶えています。

僕は高校に毎日行ってましたが、いつもテレビを観てから行っていたので、一時間目は遅刻して校舎の外で待っていて二時間目から教室に行って授業とは関係無い勉強をしていましたが、その事と遅刻に関しては教師に注意されませんでした。

当時、僕の楽しみは家から自転車で5分位の観音寺一高美術室に土日に行ってデッサンをする事でした。

夏休みは観音寺一高(進学校だった)に行って課外授業を受けましたが、中学の時の友達は僕が教室に居るのを見て驚いた様子でしたが理由を話して課外授業を一緒に受けていました。大学に入学してから専攻のデザインは楽しくて、学校人生の中で興味のある事を一番勉強した時でした。

大学4年の時に二科展で入選した時に東京の会場で知り合った人が博多でデザイナー学院の先生をしていたので、デザイナー学院での授業に興味があったので、高校の時と同じ様に生徒として授業を受けさせて貰いましたが、これは良い経験になりました。

病気は選べないですが、人生は自分の決断と少しの運で如何にでもなるのですね!

2017/12/16 ヒコー少年回想録15

1968~72年の大学の4年間は、初めて親元を離れての生活だったので映画、音楽、プラモデル、そしてデザインの勉強に充実した時でした。

映画は博多の中洲と天神に在る、何軒かの映画館で観ていましたが、当時住んでいた香椎(「砂の器」は西鉄香椎駅から始まる)で唯一の映画館で観た事もあり、邦画から洋画まで観ていました。

当時、洋画ではニュー・シネマの出てくる時期に重なり「イージー・ライダー」「キャッチ22」等、今迄に無かったテイストの映画でした。その他にも難解な映画「サテリコン」「豚小屋」等も観ていましたが、「男はつらいよ」から「ある愛の詩」「空軍大戦略」「ウッドストック」等まで、気になった映画は邦画、洋画を問わずに観ていましたが、一番印象に残った映画は三部作を通しで観た「人間の条件/主演:仲代達矢」でした。この映画は3部作で休憩時間を含めると約11時間も映画館に居ましたが、2部の上映が終った休憩時間に弁当を売りに来て、こんなに長時間も映画館に居たのは、後にも先にもこの時だけでした。

大学生になってから、それまで聞いていたビートルズの他にクリーム、グランド・ファンク・レィルロード、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル等のロックとジャズに一時期ハマッテしまい、マイルス・デイビス、マル・ウォルドロン、ウェス・モンゴメリー等を聞いていましたが、しかしジャズのノリと音は僕には何か物足りなくて、4年生になってからテレビで「ナウ・エクスプロージョン」でジョニー・ウィンターを観てからはロックしか聴かなくなりました。

当時の博多はビートルズの海賊版(大抵はウィスキー・フラットかシェア・スタジアム/音は良くないのが普通)が1,2枚あれば、ロック喫茶(今でも在るのかな?70年代は下北沢には数店在った)に、お客が集まるほどビートルズのライブ音源に飢えていました。4年生の大学祭ではクラス・メイトの何人かで「JOHN」と言うビートルズ・ソングを二人で演奏して歌うレストランを開きました。演奏の時間になると満席状態になりましたが、歌と演奏が始まると半分くらいの人が帰るのが常でした!?

デザイン専門課程の授業は興味が有る事を勉強できるので楽しいのですが、課題のアイデアを出すのは苦しい反面、アイデアを具現化して作品にするのは達成感がありました。

卒業制作の作品は「レット・イット・ビー」の写真を複写して写真シルク・スクリーンでLPサイズの透明アクリル板に刷って作品にしましたが、その時は、後にレコード・ジャケットのデザイナーになるとは思いませんでした。

2年生の夏にB4サイズのパネルに、ニューポール17(第一次大戦のフランス戦闘機)の側面図を一晩徹夜してポスター・カラーで描いて、プラモ仲間の先輩から聞いた中州のリンドバーグ(このお店は火事で今は有りません)に売りに行き、オーナーの藤堂さん(中洲では有名人)が¥2500(1969年当時、一食100~150円)で買ってくれました。肉体労働以外で稼いだのは、この時が初めてでした。2年生の冬にデザインの課題に必要だと言って親にカメラ(ゼンザ・ブロニカ/6X6)と現像道具一式(紙焼機、等)買って貰い、デザインの課題や複写(殆どビートルズの写真)に使っていました。中州のリンドバーグから時々イラストや写真のパネル張り紙焼(B3~B全)の仕事を時々頼まれる度に徹夜で紙焼をしましたが、特に写真は一晩で1ヶ月分の生活費を時々稼げました。

プラモデルは大学生になってからも、中高生の時より買っていましたが、1年生の時は寮に居て二人部屋だったのでプラモは作れませんでした。秋になったある晩に寮の中が騒がしくなり、誰かが箱崎付近に飛行機が墜ちたらしいと噂が立ち、数人で屋上に上って箱崎方面を見ました。夜だったので箱崎の辺りが真っ赤に燃えているのが見えました。寮に居たデザイン科の一人が自転車に乗って墜落現場にパーツを取りに行きましたが、MPが来て現場の外に出されたそうですが、しっかりとパーツは拾っていました。僕も1ヶ月後に現場を見に行きましたが、ベトナム迷彩のF−4Eファントム(恐らくEタイプ)が九州大学構内の建設中のビルに墜落して、ビルの下に無造作に置かれていいて、機首とコクピットの辺りは焼失していましたが僕も外板の一部を拾いました。パイロットは博多湾上でベイル・アウト(脱出)したので、今でも博多湾の海底にエジェクション・シート(座席に仕込まれた火薬を爆発させて高度0mでも50mまで上がる緊急用脱出座席)が在るかも知れません。

2年生になってからは、プラモデルを作る為に資料が無いと作れなくなりモデルを買っても箱絵と中身を見てから、仕舞うようになってしまいましたが、3年生の時に作った1/48のMe109E(マルサン製だがモノグラムのコピー)を砂漠塗装にして撮影した写真を「航空ファン」に投稿したところ、初めてモデルの写真が雑誌に載りましたので、その号は今でも記念にとってあります。

大学4年の時に作ったMe262A1a(レベル/郡是製1/72¥100)でしたが、そのモデルはピースコン(デザインの課題に使用のエア・ブラシ)を使っての初めての塗装でした。それまでは、ラッカー塗料を筆でムラ無く塗るのを頑張っていましたが、

ぼかし塗装はエア・ブラシを使うと簡単に出来て、筆塗の時代は過去になった様な気がしましたが、そのモデルが僕のプラモ歴で完成させた最後のプラモデルになりました。

2017/12/16 ヒコー少年回想録14

1976年のニューヨーク(以下NY)での音楽と映画の話です。

当時、毎週ビレッジ・ボイスを見ていると色々なライブ・ハウスで有名なミュージシャンのライブを演っていて、観れたライブもありましたが、チケットが売り切れで観れなかったライブは僕の好きなミュージシャン達でした。

11月の始めにビレッジ・ボイスでロビン・トロワー(75年に中野サン・プラザで観ました)の前座にリック・デリンジャーが出演するのを見つけて、直ぐにラジオ・シティ・ホールにチケットを買いに行き、同ホールでデリンジャーのライブを観ましたが、アンコール曲で「ロックン・ロール・フーチークー」を演奏している時にリード・ギターのリック・デリンジャーのBCリッチ(ワイヤレス)とサイド・ギターのレス・ポール(ワイヤレス)を御互いに空中に投げて、それぞれが相手のギターをキャッチしてから弾くのを初めて観ました。

ライブ・ハウスで観損ねたミュージシャンは3人いて、1人目はエルビス・コステロで、ビレッジ・ボイスに載った日の夕方にボトム・ライン(ダウン・タウンに在る有名なライブ・ハウス)に直接をチケットを買いに行きましたが、チケットは完売していました。

2人目はフランク・マリノ・アンド・マホガニーラッシュで、その当時よく聞いていたギタリストですが、気が付いた時にはライブは残念ながら終っていました。

3人目は、当時一番聞いていたジョニー・ウィンターでしたが、出演していたライブ・ハウスがマンハッタンの外で、その場所は車でしか行けないし、ライブが終るのは夜中になるので勧められないとスピーク・イージー・アンティクスのボブとリタに言われて断念しましたが、ジョニー・ウィンターはブルース・フェスでマディ・ウォーターズ(ブルース界の大御所)のゲストで出て来て「カンサス・シティ」をタキシード姿(当時出ていたLP”ジョン・ドゥソン・ウィンター”と同じ姿でした)で細いタバコを燻らせながら歌っていたのを観たのが印象的でした。

76年のNYでは5月に「スターウォーズ」が封切られ、僕は9月の後半に観ましたが、封切りから4ヶ月も経っているのに映画館は混んでいて、映画が終わるとロック・コンサートの様に全員立ち上がって拍手していたのは映画館では初めての経験でした。

本屋にはスターウォーズ関連の書籍やグラフィック関係の本が沢山並んでいましたし、スターウォーズのサウンド・トラックを担当したジョン・ウイリアムスのコンサートが有ったりして、NYでは流行っている感じでした。

ビレッジ・ボイスには映画の欄や広告が載っているのですが、その中に気になる宣伝が載っていて、最初に見た広告には「第一種接近遭遇」とキャッチ・コピーが書いていましたが、次に見た時は「第二種接近遭遇」と書いてあり、その時はまだUFOが出てくる映画とは思っていませんでした。

11月初めの水曜日にビレッジ・ボイスを買いましたが、それには「第三種接近遭遇」のタイトル横に土曜日から上映と書いてあり、気になったのでボブとリタに聞いたところ、内容は広告されていないのでUFOが出ると言う事しか知りませんでした。

土曜日の3時頃に、その映画館に行きましたが、沢山の人が列で並んでいました。入口の横に貼ってある何枚かの写真を見ましたが普通の場面でしたので、列に並ぼうとしたらボブとリタが居て一緒に4時間待ちましたが、上映が終る度に映画館横の扉が開き沢山の観客が出てくる度に、待っている人達が映画の感想を聞くと、面白い”コメディ!”だったとかシリアスな”恋愛物語”とか言って内容を言わないのです。上映一回分のお客を入れると必ず支配人が出て来て、並んでいる前列の人達にスクリーンの前に一列だけ座席を開けてあるので、それで良ければチケットを売ると言うのです。勿論並んでいる人は買いますが、アメリカ文化のレベルを見たような感じがしました。

ある日、ビレッジ・ボイスでジミ・ヘンドリックスの映画を見つけましたが、ダウン・タウンの映画館で夜の10時から上映でした。

その時間に映画館に行き客席に座りましたが、館内は誰かが持ってきたラジカセをフル・ボリュームでジミ・ヘンドリックスの曲を流し、館内中にマリファナの臭いが充満していました。

1本目の映画は予想外で、クリームのフェアウェル・コンサートでした。2本目はジミ・ヘンドリックスの「バークレー」でしたが、このサウンド・トラックは「ジミ・ヘンドリックスの遺産」のLPを74年に買っていて音は聞いていましたが映像は初めてでした。LPを聞いた時に「ワイルド・シング」でフィードバックではなくてハウリングがなぜ起きているのが映像を見て分かりましたが、ジミ・ヘンドリックスはステージ上でトレード・マークのストラトキャスターを叩き壊してライター・オイルをかけて火を付けてギターを燃やしていたのです。

「パープル・ヘイズ」や「ジョニー・ビー・グッド」の曲等でフィードバックを使い、演奏も目を見張る物があり60年代当時では斬新なサウンドでした。

これ以降ジミ・ヘンドリックス・フォロワーを現在でも生んでいますが、80年代に僕が最も好きだったスティビー・レイ・ボーンも最たるフォロワーの一人でしたが、残念ながらヘリコプターの事故で亡くなりました。

3本目は「レインボー・ブリッジ」でしたが、この映画は途中まで女性のインタビュアーの話のようで面白く有りませんでしたが、屋外のステージ上にジミ・ヘンドリックスが現れて「パープル・ヘイズ」を演奏しましたが、インプロゼーションで演奏しているように感じました。途中から黒のフライングVを弾いていたのが印象的でした。

映画が終わったのは午前2時頃でしたが、その時間になるとさすがに映画館の周りには誰も居ませんでしたが、丁度アップ・タウンに行くバスが来たので乗りましたが乗客は僕一人だけでした。

黒人のドライバーが僕に何丁目で降りるのかと聞いて来ましたので僕が56丁目と言うと、黒人のドライバーはバス停ではない所で急に止まりました。ドライバーが入り口のドアを開けて近くの深夜営業のお店でコーヒーを買って来て、それを飲みながらバスを運転しましたが、途中のバス停には誰も居なくて以外と早く56丁目に着きました。しかし、56丁目にはバス停が無いのですが道路の角で止まり降ろしてくれました。それにしても気の利いたNYのバス・ドライバーでした。

2017/12/16 ヒコー少年回想録13

尼崎を出発して、小学6年生の時に住んでいた京都府宇治市伊勢田町に向かいました。予定していたより早く伊勢田町に着いたので、宇治の平等院に寄りましたが、今とは違い、平日で暑かったのに人で混んでいました。自衛隊の官舎に住んで居たころに、道を挟んだ同じ官舎に住む、仲が良かった友達を訪ねて5日間泊めてもらい、

翌日は、京都市内に行って河原町のスロット・レーシング・カー・サーキットで遊び、友達も初めてのサーキットでしたが、僕と同じようにスロット・カーにハマッテしまい、その場でニチモのフェラーリ156F1(1/24*¥600)を買いました。

翌日から、小学校時代の同級生3人と僕で日本海側にある小浜市に海水浴に2泊3日で行きましたが、日本海の浜辺は瀬戸内海とは違っていて石が多かったです。2日目に泳ぎに行った時、海に飛び込んだ途端に痛みが走りました。

廻りを見ると相当な数のクラゲがいて、痛いお土産を日本海で貰いました。

伊勢田町に帰って来てから、小学6年生の時に唯一のプラモデル仲間だった友達の家に行き、その日は久し振りの再会で夜までプラモデルの話しで盛り上がりました。

翌日は午前中に友達と小学6年生の時に小倉小学校に行きましたが、夏休みで昔の担任の先生には会えませんでした。

午後から、友達と別れて尼崎の兄の寮に向かいましたが、小学生の時に行った伏見の模型屋に寄り道をしたので、尼崎に着いたのは夜になりましたが、寮に一泊させて貰い、翌日の昼ごろに尼崎を後に一路、四国に向かいました。

その日は朝から暑く、国道を走り神戸駅前まで行きましたが、駅前で買って飲んだコーラは美味くて、炎天下の駅前でコーラを2本も飲んでしまいました。

明石のフェリー乗り場には4時ごろ着いて、淡路島に渡り県道(国道?)を走りましたが、当時の僕が自転車で走った淡路島の道は舗装されていなくて、車も時折すれ違う位でした。

現在は、高速道路と明石大橋、鳴門大橋を通れば、淡路島を30~40分で通過して徳島県に行けるのですが、当時は自転車で淡路島を縦断(約70Km)するのに山越えもあり4時間掛って、徳島行きのフェリー乗り場に着いた時は夜の9時近くになっていました。

徳島県側の港に着いた時は9時半を過ぎていて、国道11号線を走りながら食堂を探しましたが、その時間に開店している食堂は無く、香川県の方向に走りましたが段々寂しくなり国道だけになり、1時間ぐらい走った所で、海側の堤防内側に自転車を止めて野宿をしました。

朝になって人の話し声で起されましたが、堤防近くに住む人が朝の散歩時に、堤防内側に寝ていた僕を見て不審者と思って話していたのかも知れません。

そんな状況になり、直に出発して多度津に向かい昼頃に着いて、

その日は母親の実家に泊めて貰い、翌日に観音寺に帰り、僕の初めての自転車旅行は終りましたが、夏休みが終わり学校が始まり、クラス・メイトに旅行の話と写真を見せている時に、背後に数学の教師がいて僕達の話を聞いていて、学級担任に話されてしまい、職員室に呼ばれて事情を聞かれ、無許可で県外を旅行した事に校則違反だと言われ、厳重注意に値すると担任から言われましたが、その後は何も有りませんでした。僕は内心この位の旅行は注意されるに値しないと思っていましたが、この一件で最初に感じた場違いな高校に興味が無くなり、趣味のプラモデルと音楽(バンド作り)にのめり込む事になりました。

2017/12/16 ヒコー少年回想録12

宇高連絡船で話しかけて来た人は30代の長距離トラック・ドライバーでした。その人と話している内に分ったのですが、大阪に荷物を陸送していたのです。僕の行き先を聞いて、その人は親切にも僕を助手席に、自転車を荷台に載せて伊丹まで送ってくれました。

観音寺市から伊丹市まで約250Kmなので、自転車で2日を予定していましたが、その日の夕方に伊丹市の緑ヶ丘に着きました。

伊丹の緑ヶ丘小学校4~5年生時の友達には連絡してなかったのですが、突然に会いに行ったにも関わらず他の友達も呼ぶことになって翌日に会う事になり、その夜は母の親戚宅に泊めて貰いました。

翌日は朝から友達3人と一緒に、緑ヶ丘の自衛隊に置いて在るT−6テキサン(二人乗り練習機)に乗って記念写真を撮り、その後で緑ヶ丘小学校時代の担任だった谷本先生(人格者で、後に校長になった)に会いに行きました。谷本先生は丁度プールで子供達の指導をしていて、久し振りの再会にとても喜んでくれました。伊丹には3日居ましたが、伊丹空港に行きましたが、当時の空港はのんびりしていて待合室も誰も居なくて無人駅の様でした。待合室の建物と新聞社格納庫の間に入って行けましたので、駐機していたデハビランド・ダブ(イギリス製双発短距離旅客機)の前に自転車を置いて写真を撮れるぐらい自由でした。翌日、尼崎の兄(異母兄弟)の会社寮に2泊させてもらい、その間に小学4年生の時に見た、梅田の阪急デパートのプラモデル売り場に行きましたが、そこには流行のスロット・レーシング・カーがメインで、他のプラモデルは小学生の時に見た売り場とは全然違っていました。

スロット・レーシング・カーのサーキットを店員に聞いたところ、

阪急デパートの裏に在ると言うので行きましたが、サーキットは見た事が無い広さでサーキットが2つ在り、休日でも無いのに人で混み合っていました。当時としては10分間¥100(レンタ・スロット・カー含む)は非常に高い料金でしたが、一度レーンを走らせて見ると、面白くて高いと思いながら何度か遊びました。

どうしても自分専用のスロット・レーシング・カーが欲しくなり、コグレのフェラーリ158F1(1/24と表記しているが、実際は1/20位・¥800)を買ってしまい、夜にキットを組み立て、次の日もサーキットに行きました。

当時、スロット・レーシング・カーはブームで、日本の各模型会社

(タミヤ、ハセガワ、マルサン、コグレ、ニチモ、イマイ、大滝、童友社、学研)は次々と新モデルを発売しましたが、殆どの模型会社はアメリカ製(コックス/マグネシュウムのシャシー+ホイールは製造の難しさとコスト高で他社は作って無い!、モノグラム、レベル、K&Bはアルミ・シャシー+ホイール、ETC)の模倣でしたが、価格は外国製より1/2~1/3と安かったです。

タミヤはブームの終り頃にアルミ・ダイキャスト製サイド・ワインダー方式(モーターを進行方向に対して横に置く、当時はモーターを縦に置くイン・ラインが普通だった)で優秀なシャシーを造りました。

元々はイギリスで生まれて、アメリカでブームになってから、日本でブームになりましたが、何処かの教育委員会(最近も、裸足のゲンの閲覧を制限する暴挙に出た教育委員会が、まだ存在していた!)が青少年の非行(?)に繋がると言う事を言い出して、サーキットへの出入を禁止した事で、急速にブームは去りました。 

                            続く

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矢野雅幸(やの まさゆき)
大学卒業後、CBSソニーレコード(当時)に入社。27歳で独立、フリーのデザイナーとして「ビタミンスタジオ」を設立。数多くのアーティストのレコード、CDジャケットのデザインを手懸けている。その後東京 南青山の骨董通りにデスクトップ/ミュージアムモデル専門店「ウイング クラブ」をオープン。この種のモデルの国内における認知を高めると共に、独自のジャンルとして定着させた。