矢野雅幸ブログ 2018/6

2018/06/14 ヒコー少年回想録21ー音楽の話

今回は子供の時からCBS・ソニーまでの音楽の話です。

子供の頃は周りに歌謡曲しか流れていませんでしたので、普通に歌謡曲を聴いていました。小学4年の時に北海道から大阪の近くに転勤してからテレビで、それまでに知らなかった音楽が流れていました。その音楽は、アメリカのポップスを日本語で歌っているものでしたが、子供の僕には歌謡曲と比べて、その音楽は子供心に何か感じる物があり新鮮に感じましたがテレビの番組でしか、それらの音楽は聴けませんでした。

大阪、京都と転勤して、中学生になった時に香川県の観音寺市に転勤してからは、田舎の自然の良さは感じましたが、僕の趣味だったプラモデルに関しては大阪、京都に比べて不満でした。

中学生の僕は、家(100年位経った家で玄関の中に電蓄がありました)に在った50年代の古いラジオで、当時のポピュラー・ミュージックを聴くようになりましたが、家には映画音楽のソノ・シートしか有りませんでした。

中学3年生の時に親がポータブル・プレイヤーを買ってくれたので、化粧品屋のクラスメートからビートルズの中古シングル盤(ツィスト・アンド・シャウト)を売ってもらい、中学校から帰って来る度に、必ずそのシングル盤を毎日聴いていました。

中学生の頃はポピュラー・ミュージックを聴くのはラジオしか在りませんでした。僕は毎週ラジオで「9500万人のポピュラーリクエスト」(当時の日本人口は9500万人だったのかな?)を聴くのを楽しみにしていて、いつもヒット・チャートの1位~10位まで書いていました。

当時はエルビス・プレスリー旋風が去った頃で、日本ではビートルズとベンチャーズが台頭して来た頃でした。

高校2年生の時に無理やりクラス・メイトを集めてバンドを作りました。今では考えられない事ですが、母の実家で僕が作った3本のエレキ・ギターを、クラス・メイトが作った手作りの8Wアンプにプラグ・インして(スピーカーは1個だけでドラムは箱を叩いていた)練習をしていたら、近所から通報され、警察官が来て事情を聞かれました。

その頃はビートルズ(LPX1、SX2しか持ってなかった)、ベンチャーズ(LPX2)、加山雄三(なぜか‘恋は赤いバラ’のLPX1)しか家には無くて、それらを繰返し聴いていました。

当時の日本のグループ・サウンズの演奏はテレビで良く見ていましたが、それ以外はラジオで西日本放送の「タマル・ポピュラー・リクエスト」と本屋で立ち読みのミュージック・ライフでしか情報は入りませんでした。

高校生の時に来日したビートルズ武道館公演(1966年)はテレビで見ましたが、新聞に書いていた曲は初期の曲で、実際に演奏された曲は全然違っていました。

どう言う訳かNHKでCCR(クリーデンス・クリアーウォーター・リバイバル)のライブ・フィルムの放送があり、見ましたが、ジョン・フォガティが歌ってリード・ギターを弾いているのには驚きました。

姉が結婚する前に、今の御主人(レコード店だった)と松山であったベンチャーズ(恐らく1966年)のコンサートに行った時に、パンフレットを頼み買って来て貰いましたが、コンサート・パンフレットは初めてだったので、大切に見ていましたが実家に今でも在ります。

僕が高校生の時に姉がレコード店に嫁いだので、姉の主人からビートルズ映画の「ア・ハードデイズ・ナイト」のLPを貰いました。その頃は本当に音楽に飢えてましたので、そのLPを朝から晩まで聴いていたので大学に行く頃は雑音が酷くて、福岡でLPを買い直しました。

大学の1年~3年まではロックとジャズを聴いていましたが、4年生になった時に、テレビで「ナウ・エクスプロージョン」の音楽番組でジョニー・ウィンター(ジョニーBグッドを演奏していた)を見てから、急速にジャズに興味を失い聴かなくなりました。

大学の卒業制作は、ビートルズの4人を各人ずつをレコード・ジャケット・サイズの透明アクリルに自分でシルク印刷をしましたが、その1年後にレコード・ジャケット・デザイナーになるとは思っていませんでした。

卒業して東京にステレオを持って来ていたので、東京で最初に買ったレコードは池袋東武デパートで、ジョニー・ウィンターのLP「セカンド・ウィンター」でした。

CBSソニーに入社して、最初の仕事はボズ・スキャグスのシングル盤で「ダイナ・フロー」と言う曲でしたが、ボズ・スキャグスは、70~80年代にAORのジャンルを確立して、代表的なアルバムは「シルク・ディグリーズ」で、有名なミュージシャンになりました。

仕事でデザインしていたのは、ロック、ポップス、歌謡曲、現代音楽、等で、色々なジャンルでした。当時、個人的に良く聴いていたのはビートルズ、ジョニー・ウィンター、ジミー・ヘンドリックス、サンタナ、エリック・クラプトン、リック・デリンジャー、ビリー・ジョエル、マホガニー・ラッシュ、アルバート・キング、フレディ・キング、シュギー・オーティス、マイク・ブルームフィールド等、ロックとブルースでした。

CBSソニーに居る時に組んだバンドは、無謀にもジェフ・ベック、ディープ・パープル、ジミヘン等の曲を演奏していました。

1974年の年末に銀座のソニー・ビルに呼ばれて演奏しましたが、演奏する度にアンプにギターを擦り付けてフィード・バックやハウリング(僕達のは雑音)を起こしてメチャクチャな演奏をしていたら、気が付いた時には最初にステージ前にいた人達が、会場の後ろの方で固まっていました!!(笑)

勿論、翌年は呼ばれませんでした!!

2018/06/02 ヒコー少年回想録19-2000年 ロシア

2000年になってロシアに行った話です。

その時は12月初旬でJALの日にちが合わなかったので、仕方なく初めてエアロ・フロートを使いました。成田から乗機した機種はA−320で定刻通りに出発しました。ロシアのモデラーがモデルを日本に持って来る時に成田に向かえに行っていたのですが、いつもエアロ・フロートは何時間も遅れるのです。

成田からモスクワ近郊のシェレメチェボ空港までは約8~9時間ですが、ビジネス・クラスの乗客は殆ど乗っていなくて僕を含めて5人位でした。普通はある映画用のモニターも無く、日本のエア・ラインと比べるとサービス・レベルは低く、しかも、明らかにCAと思われる人が空いた席で2人寝ていました。

シェレメチェボ空港で通訳のヤナさんに会い、隣にある国内線用側のホテルで一泊しました。翌日は朝の便でTu−134でした。この機種は初めて乗るので期待していたのですが、機内に入ると最初に異様な臭いが鼻を突きました。それは犬の臭いでしたが、勿論、犬は一匹もいませんでした!

座席に座って前を見るとボロボロになった塗装の木のトレーがあり、横の窓を見ると機体を塗った塗装が窓からはみ出していて、雑な作業をしているのが分りました。上の棚は開放の只の棚で、乱気流の時は重たい荷物は落ちてくると思いましたし、機体の整備は大丈夫なのかなと、今迄に乗った機体で初めて心配になりました。

一応、何事も無く目的の空港に着きましたが、現地はマイナス25度で経験した事の無い寒さでした。

空港から目的の市までは車で約4時間でした。途中の景色はロシア特有の平坦な土地に植林した様な林が沢山ありました。目的の市に着く前の小高い丘の向こうにアントノフAn124(世界最大の輸送機は同社のAn225)の垂直尾翼が見えたので、同乗のロシア人モデラーに聞いたところ丘の向こうにアントノフの飛行場が在るそうです。

その市は側にボルガ河の長い橋が架かっていて、市内で唯一の信号機が橋の側に在り、橋を渡る車は信号機の為に橋の上で渋滞していました。東京だったら問題になり直ぐに廃止になると思います。また、60年代に船が橋にぶつかり300人以上が亡くなったそうです。当時のソ連は秘密主義で国内の事故は西側に情報を流さないようにしていたのだと思いました。市の中心は丘の上に在って、そこのバザールの様な建物に行きました。車を降りると体感温度はマイナス25度以上寒く感じて、Gパンの上から足が寒さで痛かったです。

ホテルは質素な部屋でしたが、以前に泊まった地方都市のホテルより良かったです。モデラー達の仕事場を見せて貰いました。二人は廃校になった場所と政府の建物の空いた部屋を借りていましたが、ロシアでは普通の事のようです。

その日は2人のモデラーと通訳のヤナさんと僕の4人でレストランに行き4人が充分に食べて払った金額は25ドルだったので安くてビックリしました。

マーケットに在ったCDショップでポール・マッカートーニーのCDを買った時も4ドルと安くてビックリしましたが、日本でよく見たら印刷が全てモアレ・パターン(印刷を複写すると出るパターン)で正規のCDで無いのが分りました。以前ウクライナでレニー・クラビッツのCDを買った時も8ドルで、東側はなぜ安いのか疑問です!

その市は60万人の人口で旅客機を製造する会社が在りましたが、道路の状態は悪く、何箇所か道路の真ん中に穴があり、車が穴を避けて通っていました。インフラが必要な市に思えました。

帰りの日は朝から相当雪が降っていて、空港の在る市に向かいました。途中から吹雪になり回りの景色が殆ど見えなくなりましたが、丘の下の道路横で吹雪の中で魚を吊るして売って(誰が買うのかな?)いたのがシュールな光景でした。

結局、空港の在る市までは約5時間半も掛りました。その市でも一社打合わせが有りましたが、モデルを何機かをオーダーして打合わせが早く終わり、社長が卒業した大学(中庭にIl−28等の実機が数機置いて在りました)の資料室に行こうと言う事になり大学に行き、そこの女性館長を紹介して貰いました。日本人がこの資料室に来るのは初めてだと言ってました。

以前にもキエフのアントノフ工場に行った時も資料室を見学させて貰いましたが、その時もこの資料室に来た初めての日本人だと言われましたので、そこのサイン帳に記念にサインしました。

帰りは、この市の空港には以前にも来ていたので、空港内は面白い物は無いのが分っていたので出発便のロビーに行きました。

帰りもTu−134でしたが行きの便ほど機内は臭いませんでしたが、機体が古いのが分り一抹の不安を覚えましたが無事にシェレメチェボ空港側の国内線空港に到着しました。

空港建物の外はマイナス30度で、タクシーに乗りましたが車内は暖房されてなく外より多少暖かい程度でした。ロシア人の皮膚感覚はどうなっているのかな!

国際線のロビーで通訳のヤナさんと2時30分に別れて、出発便のロビーに入るまで、総合ロビーで場所を移動しながら4時間待ちました。

7時頃に、やっと出発のロビーに行ったら成田行きは遅れますと言うアナウンスがあり、ビジネス・クラスのラウンジに行きましたがそこは人で混んでいて、スナックは殆ど無く飲み物だけがありました。遅れは1時間くらいだと思っていたので機内の食事で済ますつもりでいましたが、9時になっても遅れているアナウンスしかありませんでした。その時刻には御土産屋とかレストランが閉まり、2階のサンドイッチ屋しか開いていませんでした。仕方なく不味いサンドイッチを食べました。

結局、搭乗出来たのは午前1時半過ぎになり、機内では直ぐに寝てしまい成田に着く1時間前に機内アナウンスで目が覚めましたが、エアロ・フロートが成田に何時間も遅れる理由が分ったような気がしましたが、日本のエア・ラインを見習うべきだと思いました!!

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矢野雅幸(やの まさゆき)
大学卒業後、CBSソニーレコード(当時)に入社。27歳で独立、フリーのデザイナーとして「ビタミンスタジオ」を設立。数多くのアーティストのレコード、CDジャケットのデザインを手懸けている。その後東京 南青山の骨董通りにデスクトップ/ミュージアムモデル専門店「ウイング クラブ」をオープン。この種のモデルの国内における認知を高めると共に、独自のジャンルとして定着させた。