矢野雅幸ブログ

2017/04/28 ヒコー少年回想録5

1980年早春、その日も北原照久さんに夕食を誘われて、門前仲町のマンションに向かって青山通りを走っている時に、外苑前から僕達の車の前に小さなスポーツ・カーが来て、その車と5分ほど同じ方向に走った時に北原さんが、この車は可愛いね何と言う名前なのと聞かれたので、MGミジェットと言ったら、この車を買うのならティン・トイを買う人を見つけてくれると言うのです。僕はそれまでに各地で集めていた物と、ニューヨークで買った多くのティン・トイを持っていたのです。

当時は参宮橋に住んでいて免許を取ったばかりで、夜は自転車で環6通りにある、フィアットのショー・ルームに展示していたX1-9(MRでベルトーネのデザイン)を見に行くのを楽しみにしていました。そんな時に北原さんの一言でMGミジェットを買う事になり、その後13年間は英国のオープン・スポーツ・カーにハマッテ仕舞いましたが、それは英国車との濃密な楽しい時間でした。

最初のMGミジェットは納車されてから11ヶ月の運命でした。

1981年1月23日に運命の日を迎えました。甲州街道と西参道交差点横の水道局資材置き場下に埋めていた本管が破裂して西参道が川の様になり、僕の住むマンションの脇道まで水が流れ込んでいて悪い予感がしましたが、川になった西参道を冷たい水の中を膝まで浸かりながら渡りました。

甲州街道から参宮橋駅に向かう西参道の右側は下り坂になっていて、そこにはショッキングな光景が広がっていました。数棟の家が屋根の近くまで水没していたのです。その日は晴れでシュールな光景でした。

僕のミジェットは首都高下の西参道から一段低い所のマンション地下に置いてありましたが、その時は駐車場には近づく事も出来ず、夕方に水が引いてからマンションに行きましたが、地下の駐車場の水中で物言いたげそうにヘッド・ライトが灯いて哀れでした。

翌日の昼に駐車場の水を水道局が強制的に排水して、ミジェットのカバーを取りドアを開けてメーター・パネルにキーを差し込んで回しましたが、エンジンは勿論動きませんでした。ディラーのレッカー車が来てバンパー下のフックにワイヤーを掛けて引いて行かれる様は、何か胸が熱くなるものがありました。

約1ヶ月後にディラーから届いた明細書を見ると、そこには当時のポルシェ911が新車で買える様な額で、しかも全部のパーツは揃って無く修理代も書いていない明細書でした。当初、水道局の担当者は車を修理する気でしたが、この明細を見た途端に担当者の二人は全額補償の書類を用意してくれました。

次のMGミジェットを探しましたが、その時点では生産は終了していてプレミアが付いていたのです。ディラーからの連絡で埼玉県のサブ・ディラーに1台在庫があり、直ぐに行って買いましたが、ラジオも付いていない素の状態でした。このMGミジェットには2年程乗っている間に四国や九州まで行きましたが、その間に前のミジェットと同じ箇所が調子悪くなり、故障する度に僕のティン・トイはパーツ代や修理代に化けてしまいましたが、車の事は色々と勉強になりました。

次の車は注文して1年6ヶ月以上待って納車されたのは、英国車のケーターハム・スーパー・セブンで、アルミ・ボディのパイプフレームでボディは二人で持てる重さでしたが、レーシング・カーと棺桶に片足を突っ込んだ様な車でした。1984年当時、セブンは国内に200台程しか無くて、都内でも1年に1台見られるとラッキーな時代で、ケイターハム・セブンとの約11年(エンジンの違う3台)は僕の車人生の中で一番超濃密な時間でした。 このケーターハム・スーパー・セブンの為に、英国サリー州ケーターハム・ヒルズの本社に行った話しは次の機会に。

2017/04/28 ヒコー少年回想録4

ヨーロッパに行った時は必ずロンドンに寄っていましたが、何時もピカデリー・サーカスのシスル・ピカデリー・ホテルに泊まっていました。

ホテルの周りはお土産物屋とチャイナ・タウンと映画館と小公園などがあり、昼間から大道芸人や観光客で夜中まで騒がしく、まるで新宿のようでした。歩いて昔の野菜市場跡のコベント・ガーデンに行く途中に、モーター・ブックス(飛行機・船・車・機関車の専門店)やミニ・カーの店とシガレット・カードの店があり、何時も寄っていました。

ホテルの直ぐ近くにノーザン・ラインのピカデリー駅があり、毎回コリン・デールにあるロイヤル・エア・フォース・ミュージアム・ヘンドンに、昔の大戦機を見に行ってました。このミュージアムには1985年以来何回訪れたか分からない位来ていますが、何時も感心するのは展示の機体が徐々に綺麗になっているか1985年に観た当時のままを維持しているのは流石イギリスだと思いました。

バトル・オブ・ブリテンの建物に置いてある、大型飛行艇ショート・サンダーランドは90年代までは機体内部に入れませんでしたが、2001年に訪れた時は、機首のドアより入って機体内部を見れるようになっていました。日本のミュージアムではこんな事は無く展示機は傷むままに展示しているのが普通です。(メンテンスはしているのかな?)

電車に乗って1時間ほどでケンブリッジの近くにあるダックス・フォードに何度か行きましたが、ここのミュージアムと飛行場はエア・ショーの時に訪れました。ハンガー内では大戦中の英軍機や米軍機がフル・レストアされていて、それらを見学出来ますし、側にいるレストアラーに質問をする事も出来ます。

外では引っ切り無しに第二次大戦機の英軍機と米軍機が飛行するのですが、テントを張った色々なお店があるので、そこで飛行機関係のグッズを買うのを楽しみにしていました。エア・ショーに3回目に訪れた時に、その日のメインのシー・ビクセン(50年代艦上ジェット戦闘機)が飛行しているのは流石イギリスでした。会場に貼られていたシー・ビクセンがレイアウトされた特大サイズのポスターを如何しても欲しくなり係員に聞きましたが、このポスターは売り物では無いので譲れないと言われました。そこで、奥の手を出して名刺を渡して、日本で航空機模型のお店を開いてると言ったら、簡単にポスターを譲ってくれました。(このポスターは今でも所有しています)

他の国も同じですが、航空機模型関係のお店を開いてると言って名刺とカタログを渡すと急に親切になるのが常でした。それでアメリカではダゴ・レッドのカウリングをリノ・エアレースの優勝パイロットのブルース・ロックウッド氏から買う事が出来ましたし、何度か良い思いをしました。

ダックス・フォードのミュージアムには写真でしか見た事が無かった、ウエストランド・ライサンダー(第2次大戦中の高翼機)も展示しているのです。この機体は高校生の時に片道約55Kmを自転車でエァフィックス(イギリス製)見たさに、高松まで行ってウエストランド・ライサンダー(1/72)のプラモデルを¥200で買った事がありました。

ダックス・フォードには、その他にも戦車とアメリカ機のミュージアムがあり、アメリカ館には第2次大戦機から大型爆撃機のB-52まで展示していて、建物内に一部の機体が立体的に展示されていて、僕の好きなミュージアムのひとつです。

2017/04/28 ヒコー少年回想録3

中学生から高校生の時が屈託無くプラモデルを作れた時でした。

京都府宇治市伊勢田町から香川県観音寺市に移転して、最初に市内で探したのはプラモデル店と本屋でしたが、どちらも僕の満足するお店では在りませんでした。

この頃になると、プラモの箱絵や解説書以外の塗装を試したくなり、貸本屋の少年雑誌に載っている特集記事や口絵を集め、中学生の時に発売されたピラー社のラッカーを買いましたが、限られた御小遣いの中ではプラモを買うのが先でした。

ラッカーの各色を集めるのは無理で、基本色の5色(黒、白、赤、黄、青)とシンナーを買い、航空雑誌に載っていた色の配合表で、それまで分らなかったオリーブ・ドラブやダッグ・エッグ・グリーン等の色を作る事が出来ました。

中学生の時に本屋に注文してから約1ヶ月間待って、一冊のプラモ・ガイド(¥150)が届いて、それ以降はプラモ・ガイドが僕のバイブルになり、今でも全冊を持っています。

中学生の時は日本製のプラモで1/70~1/75スケールをメインに作っていましたが、そのスケールのプラモは¥100(外国製は同スケールで¥200~¥280)で、僕の経済力ではそれらのニチモ、三和、マルサン等のプラモを買うしか無かったのです。

高校生になってからは、僕のお気に入りはLS社の1/75シリーズでしたが、久々に発売された隼二型を作り、LS社の新製品を待ちましたが、この会社は新製品の広告は早く出るのに、製品は何ヶ月も待ってから観音寺市の模型店に入荷するのが常でした。

高校生になって、それまで買えなかった米国レベル社が日本のグンゼ産業と提携した結果、レベル社の1/72(¥240)プラモは¥100になりました。

それ以降は1/72スケールの中心はグンゼ/レベルになりましたが、このシリーズのニューポールとアルバトロスを作ったお蔭で、第一次大戦の複葉機を多数作って、一時期は第一次大戦中と大戦以前の複葉機にハマッテしまい、他のメーカーの複葉機も作りました。

中学3年の時から1/50と1/48はマルサン(リンドバーグ/ホーク/モノグラムのコピー・モデル)の安いプラモを買っていましたが、1/48のP-51D(ホークのコピー)をギラー少佐の赤色(当時は赤でしたが、本当はオリーブ・ドラブ)と銀色、機首のチェッカー、胴体のCYGのレタリング等、無謀にも全て筆塗りで挑戦した事もありました。

高校1年の正月に多度津の母の実家で予想以上のお年玉を貰い、丸亀駅の近くの路地裏に、趣味が高じて家の一部で模型店を開いている変わった店主の居る模型店でしたが、その店では一番高価なモデルは奥のケースの目立つ所に飾っていて、夢にまで見た念願のモノグラム社のP-51Dムスタング(1/32¥1200)を買いました。

このプラモは、キャノピーは開閉可能で胴体下のダイヤルを廻すと主脚と尾脚が連動して主翼と胴体に収まるし、ダイヤル側の左右のレバーを動かすと左右翼下の爆弾が落ちました。当時の日本のプラモデルでは可動が流行っていましたが、どのプラモもモノグラム社の比では有りませんでした。

高校2年の夏休み前から作っていたグンゼ/レベルのMe109E(1/72)を、ある航空雑誌に載っていた海洋塗装(?)にして東京で開催されたオールジャパン・レベル・コンテストの高校生/一般の部で応募しましたが、忘れた頃に桐の箱に入った銅賞の賞状とメダルが送られてきました。僕のプラモデル歴の中で、最初で最後の受賞となりました。

受賞したモデルはアメリカに送られて持っていませんが、中、高生の時に作ったプラモの一部は、今でも実家に置いています。

2017/04/28 ヒコー少年回想録2

今回は幼少の1953年頃から1962年の小学6年生までの話で、マニアックな話が多々出て来ます。

今の仕事の原点になったのは、父が出張の度に飛行機のオモチャを僕に与えた事が原点で、今日まで続いているのかも知れません。

父からのオモチャで一番記憶に残っているのはF-94スター・ファイアー(機種名は後に知りました)のフリクション・トイでした。札幌に居た時に兄が交通事故に遇い、病院に見舞いに病室に入った途端に目が釘付けになりました。そこに置いて在ったのは見た事も無い飛行機のオモチャでした。

それはグラマンF-9Fパンサー(映画トコリの橋に出てくる)で胴体の真ん中にクランクを差し込んで廻すと主翼が実機の様に畳めるのと風防が透明(当時のオモチャの風防はブリキでプリントが普通)で磁石が付いていて、子供の僕には高価で現実離れしたオモチャでした。

父が陸上自衛隊に勤務しており北海道に5年住んでいましたが、子供の頃から意外と飛行機と接する機会はあったと思います。小学1~2年生の頃、千歳で空自の基地際に家族でテントに泊まりましたが、早朝に目が覚めた僕はテントを抜け出して展示している色々な機体を見ていました。その中で1機だけ気になるF-86Fセイバー(当時の新鋭機)が在りましたので、周りに誰もいないのを確かめてからセイバーの空気取り入れ口に入って行きましたが、途中まで進んだ時に子供心に危ないと思い後退りして出ました。

旭川では陸自の展示があり、そこには色々な兵器が並べていましたが、僕が興味を持っていたのはM-4シャーマン、M-24チャーフィー戦車(当時のゴジラとか東宝のSF映画に良く出ていました)とか、飛行機のL-19バード・ドック、スチンソンL-5とか、この頃は何の機種か知らないただ好きなだけの子供でした。

滝川で小学3年の時に友達と広場で遊び中に、突然轟音がして低空を2機の戦闘機が通過したのですが、機首には星のマークが描いていました。後で分かったのですが米海軍のA-4スカイ・ホークだったのです。恐らく北海道の近海に空母が来ていたのではと思います。

滝川には模型店が1店だけ在りましたが、そこには2色刷りのタグが付いたビニール袋に入った木製のキット(ラフに切った板と似た様な部品が数点、簡単な説明が入っている)の飛行機、戦車、船(船のキットは高い値段の物は箱に入っていました)が売られていたので一番安いキット(飛行機/¥30)を兄と一緒に買いましたが、道具も無い子供の僕達にはセメダインだけでは作れませんでした。当時、雑誌でプラモデルの存在を知りましたが、北海道では一度も見れませんでした。

小学4年の時に大阪の伊丹市に転勤しましたが、塚本に従兄が住んでいたので、遊びに行った時に従兄が作ったF-104(スケール/メーカー不詳)のプラモデルを初めて見ました。従兄と一緒に近くの模型店に行きましたが、そのお店にはプラモデルは沢山は置いてなくて種類も少なかったです。

伊丹では最初に緑ヶ丘と言う所に住んでいましたが、周りには模型店は在りませんでした。

その当時オモチャ問屋のマルサン商店が、プラモデル・メーカーとして初めてテレビで「陸と海と空」の番組を日曜日の朝10時30分から(関西地区)放送していましたが、宣伝のプラモデルを視るのを楽しんでいました。

その後、伊丹駅(丁度、阪急とJRの間)の近くに引越しをしました。市内に移った事で小学校へは遠くなりバスに乗って行く様になりましたが、バス停が阪急伊丹駅(現在は位置が変わっています)の前で、その側に新聞、雑誌を販売している小さな売店があり、平置きした三共のピーナツ・シリーズ(¥30*1/150)の10種類程がいつも置いてあり、帰りに見るのを楽しみにしていましたが、殆ど見るだけで滅多に買えませんでした。お金を貯めて最初に買ったのはピーナツ・シリーズの97式艦上攻撃機(部品数7点/30円)でした。

正月に親戚と一緒に阪急デパートに行きましたが、オモチャ売り場の一角が黒山の人だかりになって、そこだけが明るい感じでした。

人の間を掻き分けてケースの中に最初に見たのはモノグラムのB-25で、今まで見た事も無い様な外国製のプラモデルが、ショー・ケースの中で宝石の様に飾られていました。

それは例えれば軽自動車しか知らない人が、フェラーリやランボルギーニを見る様な物で、あまりのパッケージ・デザインのカッコ良さに僕はカルチャー・ショックを受けました。

その時は、マルサンの飛燕(1/50*¥250)を親戚に買って貰いましたが、外国製プラモデルのショックは中学生になってから当時の日本製との余りの出来の違いに気が付くのでした。

小学生の僕にはその違いは分かりませんでしたし、いつも僕のポケットには¥5~10しかないのでピーナツ・シリーズを買うのも大変でした。どうにか年に2~3機のプラモデルを買っていましたが、正月しかマルサンのモデルは買えませんでした。5年生の正月に阪急デパートに行ってマルサンの疾風(1/50*¥280)を母に買って貰いました。

6年生の時に京都府宇治市の伊勢田町に転勤しましたが、一軒だけ模型店があり、そのお店で最初に買ったのはLS社の彗星(1/75*¥100)でした。小学6年になるとマルサンの1/100シリーズ(¥50~¥70)を集めていて、そのお店でよく買っていましたが、買えたのは数機だけでした。小学生の頃はプラモデルを買うのが精一杯で、塗料は5年生の時に買った缶入りの黒色が1色だけで、シンナーを知らなかったのでラッカーは少しの間しか使えませんでした。

中学生の生活は香川県観音寺市から始まりました。

自然の良さはありましたが、プラモデルに関しては本当に後進国で、いつも観音寺市内の数件の文房具店とか市内に一軒ある模型店に行ってましたが、外国製のプラモデルは無くて同じような日本製のプラモデルしか置いていなくて、それを買っていました。

香川県に住んでいた6年間(中学/高校)は、プラモデルと音楽に渇望した時期でした!!

2017/04/28 ヒコー少年回想録①

     矢野雅幸プロフィール
 
香川県生まれ。大学卒業後、レコード会社のCBSソニーに入社。レコード・ジャケット等のデザインを手がける。デザイナーになってから、ティントイを集めだし、ニューヨークに旅行してデザインとティントイの情熱が高まり、会社を退職。デザインの勉強をする為とティントイ収集の為にアメリカへ留学をする。帰国後、デザイン事務所「ビタミン・スタジオ」を設立。矢沢永吉、等のレコード・ジャケットを担当するなどしてデザイン事務所を軌道に乗せる。1988年アメリカ旅行中に出会った飛行機のデスクトップ・モデルに惚れ込む。デザイナーを引退していたら始めようと思っていた飛行機モデルの輸入販売を開始。1990年、「株式会社WING CLUB」を設立。「ウイング・クラブ」で販売されるモデルは実機に忠実で精巧だと評判が高く、根強いファンが多い。

1950年 香川県観音寺市に生まれる
1972年 CBSソニーに入社。レコードジャケットデザイナーとして活躍
1975年 アメリカへ旅行。ニューヨークに住むことを決意
1976年 CBSソニー退社。デザインの勉強のためニューヨークへ留学
1977年 帰国後、グラフィックデザインスタジオ「ビタミン・スタジオ」を設立。
      矢沢永吉などの多数のミュージシャンのレコードジャケット・デザインを手がける。
1988年 アメリカ旅行の際に、飛行機のデスクトップ・モデルに出会う。
    「TOYS & MODELS」の飛行機モデルの総代理店として輸入開始。
1990年 株式会社「ウイング・クラブ」を設立
1991年 南青山骨董取りに日本で初めての完成品飛行機模型専門店をオープン
1995年 宮崎駿監修によるジブリの「紅の豚」S-21発売開始
1998年 ジブリ「紅の豚」ミュージアム・モデル発売開始
1998年 ハーフ・スケルトン零戦52型(1/18スケール)発売
2000年 究極のモデルFw190D-9発売
2001年 究極のモデルF-86Fセイバー発売
2001年 テレビ東京「開運!なんでも鑑定団」に航空機関連グッズの鑑定師として出演。 
2002年 伝説のパイロット、スティーブ・ヒントン氏にプレーンズ・オブ・フェイムにて出会い、
              RB-51レッ ド・バロンのミュージアム・モデルを贈呈
2003年 バンダイから矢野雅幸監修による食玩「ウイング・クラブコレクション」を発売。大ヒット遂げる。
2003年 ミュージアム・モデル・シリーズ豪華写真本「WINGS」出版
2004年 1/144ネイビー・コレクター・シリーズ大和、赤城、長門、加賀、瑞鶴、飛龍 発売開始
2005年 究極のモデルMe109G-6発売
2006年 ハイエンド・モデルP-51D、コルセア、Me109G-6発売
2006年 究極のモデルMig15発売
2015年 究極のモデル零戦21型発売
 
数々のオリジナルモデルを開発、製造、販売。「すべての航空機、艦船をモデル化!!」をめざし、日本に上質な完成品飛行機・艦船モデルのジャンルを創成、定着させた。現在も世界各地の優秀なモデラーを探し、精密な飛行機モデルを発売し続けている。
 

●ウイング・クラブのブログは矢野の経験した、子供の時から現在までの回想録です。海外旅行、車、オモチャ、プラモデル、映画、音楽、デザイナー時代に関しての回想録ですが、回によってはマニアックな話もありますし、時代によって貨幣価値が異なりますので、その辺りを御理解して御読み下さい。
(株)ウイング・クラブ 矢野雅幸
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ウイング・クラブを設立しようと思ったのは1988年で、きっかけは原宿でビタミン・スタジオ(レコード・ジャケット専門のデザイン・スタジオ)を開いている時に、昼食後は何時も 原宿の裏通りのお店とか表通りのお店を見ていましたが、その日はキディ・ランドに行きましたが、そこで初めてトイズ&モデルズのデスクトップ・モデルを見ました。その時に直ぐ思い出したのは子供の時に自衛隊の映写会で観た映画「ロケット・パイロット」の司令官室に置いてあったモデルでした。

当時はLPからCDに変わり始めの時でしたし、アナログ・デザインからデジタル・デザインに移行する時だったのです。31.5Cmのレコード・ジャケット・デザインから12.5CmのCDデザインになるのは時代の流れで仕方の無い事ですが、僕はデザイナーとしてCDの大きさは魅力を感じられませんでした。

小学生の頃から飛行機が好きでプラモデルを作っていましたが、大学を出てからは作っていませんでしたが、原宿にあった模型店にも時々行ってましたが、80年代のプラモデルは60年代よりパーツが多くなり、デザインの暇な時に作る様なものではありませんでした。そんな時にデスクトップ・モデルを見つけて本職のデザインで1ミリ単位の仕事をしていたのでプラモデルの細かいディテールと塗装は仕事の安らぎとはならなくて、デスクトップ・モデルのセンスの良さと完成品に惹かれました。それから何処でデスクトップ・モデルが売っているのか都内で探しましたが、見つかりませんでした。

そこでアメリカに行けばデスクトップ・モデルを見つけられると思いロスに行きました。妻の親戚がロス郊外のサン・ディマスに住んでいて父親はアメリカン・エアラインズのパイロットで、二人の息子の一人はパイロットの卵で、父親が買ったパイパー・エアロ・ターボに殆ど毎日乗っていました。彼の名前はダニーで少し日本語を話せるので会話には困りませんでしたので、デスクトップ・モ デルを何処かで見た事無いか聞いたところ、アメリカではデスクトップ・モデルは珍しくなく、直ぐにモハーベ・エアポートに在る飛行機グッズを売るお店で見たとダニーが言ってくれました。

翌日、ダニーと彼のガール・フレンドと僕でパイパーを格納庫から出してモハーベ・エアポートに飛行しましたがモハーベ砂漠に行くのには山を越える必要があり、その向こうは砂色の世界が広がり遥か彼方にロッキー山脈(?)が見え、手前の砂漠にはスペース・シャトル用の長い滑走路が見えました。
モハーベ・エアポートのお店(現在は移転)はサープラス・ショップで空軍関係の中古品と、小物等は新品でデスクトップ・モデルは20機位展示していましたが、日本では買えないマーチン・ベーカー製F-4ファントムのエジェクション・シートが沢山売っていたのには驚きました。
そのお店でデスクトップ・モデルを買いましたが、その4機はDC-3、X-1、B-25、F-100ですが、その時に買ったX-1は映画「ライト・スタッフ」のチャック・イェガーが人類史上初のマッハ1を出した機体のデスクトップ・モデルなので売らないで、今でも会社の僕の机に置いています。この時からウイング・クラブの歴史が始まりました。


矢野雅幸
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