矢野雅幸ブログ

2017/06/27 ヒコー少年回想録7

201608180035_1.jpg

1988年の8月に友達と僕の3人でイギリスに行った話しです。

ある英国の車雑誌にロータス・ミーティングがドニントン・パーク・サーキットで開催と載っていたので、スーパー・セブンに乗っている二人の友達を誘いました。一人は英国テイジンに2年半程行っていたセブン・オーナーで、彼はイギリス英語が喋れたので色々な場所で通訳として助けてくれました。

もう一人はIBMに勤めていて、スーパー・セブンは2台目のオーナーでした。3人共車が好きなのでロータス・ミーティングのあるドニントンに行く間に、車関係の会社や工房に行こうと言う事で話が纏まりました。僕はそれまでに2回イギリスに行っていましたが、何時も入国審査に時間が掛るので、一計を案じてイミグレーション・オフィサー用にロータス・ミーティング記事のコピーを持って行きました。

ヒースロー空港に着いて、何時ものように長い列に並んで入国審査を待ちました。僕の番が来てイミグレーション・オフィサーが何時ものように‘目的は?’と聞かれたので例のコピーを見せたところ直ぐにスタンプを押してくれました。イギリス人ならロータスを知らない訳が無いと思ったのは正解でした。

ロンドンでレンタカーを借りて最初に行った所は、勿論!サリー州

ケイターハム・ヒルズに在るスーパー・セブンの聖地、ケイターハム・カーズ(現在はケント州に在る)でした。

次に行ったのはクラシック・ロータスで有名なマイク・ブラザーフッドの所に行きました。僕達はお店だと思って探していましたが、見つけたのは普通の家の納屋で昔のロータス車を修復している所でした。

次はTVRに行きましたが、思っていたより小さい場所でタスカンが一台在りましたが、それだけでした。

次に行った所はマーコス社でしたが、社長が会ってくれて工場を見せて貰いましたが、マーコスGT(ボディはグラス・ファイバー)のバルク・ヘッドに木を使っているのは、いかにもイギリスぽい感じがしました。

翌日のドニントン・パーク・サーキットの駐車場には、昼前に着きましたが、サーキット側の芝生には今迄に見た事の無い数のロータス・エランが並んでいました。しかも、雑誌で見たエランのバンも在りましたが、ロータス・ヨーロッパが殆ど無かったのは不思議でした。元々、ロータス・ヨーロッパはフランス向けの車でミッションはルノー製を使っていましたが、ロンドンでも見た事が無いのでイギリスでは人気が無いのかな?

僕達が驚いたのは、日本では決して観る事が無かったスーパー・セブンのデモンストレーションで、まるでスーパー・セブンが舞を舞っているような感じで、色々な凄いドライブテクニックを披露して、同じセブン乗りとしては凄く刺激になりました。それと、歴史的に貴重なジム・クラーク(60年代のF-1レーサー/現代のアイルトン・セナのような存在)のロータス25を、当時の元メカニックがフル・レストアをして持って来て展示してましたが、イギリス人のF-1の歴史の深さを見ました。

ドニントン・パーク・サーキットで、数年前から知っていたドイツ・セブン・オーナーズ・クラブの副会長に初めて会いました。

彼はレーシング・カーのロータス61(正確では無いかも)を持って来ていて見せて貰いました。ドニントン・パーク・サーキットで知り合ったイギリス人の家に翌日に行く事になり、その日は近くの町に夕方に着きましたが町の商店は閉まっていて、商店街の外れに誘蛾灯のように沢山の電灯を点けているお店に行きました。お店はテンプラ屋で若い女の子の売り子が積極的にテンプラを勧めてくるのです。僕達もお腹がすいていたので各自が何個かテンプラを買って、もう一軒開いていた酒屋で缶ビールとコーラを買ってから歩道の端に在ったベンチに座ってテンプラを一口食べましたが、あまりの不味さに三人とも側のゴミ箱に全部捨てました。

その後、イギリスには何度となく行き、色々なレストランで食べましたが食事は日本食か中華が無難で、イギリスではアメリカのファースト・フードがまともに思えました。

その町で一泊する必要があったのでB&B(漫才のB&Bでは無く!ベッド&ブレック・ファストの略)を探して、パブの上にB&Bを見つけてそこに泊まりました。夜になって3人で階下のパブに食事をしに行きましたが、地方の町だからかも知れませんがパブではあまり歓迎されていない感じの雰囲気で早々に食事(ここも不味かった)をして部屋に戻りました。

2回目にイギリスに行った時に、ビューリー(オート・ジャンブル)の会場で「ジャップ!」と呼ばれたのを思い出しました。

翌日はドニントン・パーク・サーキットで知り合ったイギリス人の家に行きましたが、彼はケイターハム社のスーパー・セブンをフェリーする仕事をしていて、家には2台のスーパー・セブンが置いて有りましたので彼と僕達が2台に分乗して、近くの町に在るストーン・ヘンジ行きましたが、途中の町中では東洋人がスーパー・セブンに乗っている為かジロジロ見られました。

ストーン・ヘンジにスーパー・セブンで近づくにつれて空が怪しい雰囲気になり一時的に激しい雨が降りましたが、イギリス特有の天候で直ぐに雨は上がりましたが、ストーン・ヘンジの側に虹が見えて、何か神秘的な雰囲気でした。

ロンドンに戻る前にロータス社に行きましたが、生憎、夏休み中だったらしくて、工場は閉まっていて見学が出来なくて僕達はガッカリしましたが、僕達は憧れのロータス社の場所に来た記念に何かを持って帰りたくて各自で探しました。僕はロータスの工場の壁に貼っていた駐車禁止のプレートを剥がして(良い子は真似しないで)持って帰りましたが、そのプレートは今でも大切に自宅の壁に飾っています。それにしてもイギリスの車文化の奥深さを知りました。

当時のイギリス車産業は外国資本があまり入っていませんでしたが、現在のイギリス車は殆どが外国資本が入ってしまって、有名なミニもオースチン/レイランド/ローバー・ミニになり、今やBMWミニになりましたが、ロータスも残念ながらアジアのある会社の傘下になりました。

2017/06/27 ヒコー少年回想録6

社会主義と共産主義の国では、西側の国ではあまり経験しない事が普通に起きていたように思いました。ロシアには5~6回行きましたが、90年代後半モスクワの話です。

その時は市内と近郊の街に行きましたが、4日間の滞在(当時のJALは週2便だった)で、1日目はホテルに地方のモデラー2人に夜行列車で来て貰い、究極のモデルのF-86とFw190D-9の途中まで製作したモデルを見ながら打ち合わせをしました。

その時は10月中旬でモスクワは寒かったのですが、ホテルの部屋には暖房は入っていなくて(宿泊客は寒さに強いのかな?)夜は寒さで早くベッドに入り、一晩は我慢しましたが、翌日に通訳のジーマ氏(彼は後に日本人女性と結婚して、現在は日本に在住です)に頼んで部屋にオイル・ヒーターを入れて貰いました。

翌日は、郊外のミュージアムに行きましたが、門の付近に大勢の人が歩いていてジーマ氏が車内に居るように言って、車は門を通りました。このミュージアムはロシアでは有名な場所でしたが、屋外にTu144コンコルドスキーやカスピの怪物等、見た事のある機種が数多く展示されていましたが、西側のミュージアムの屋外展示に比べると、僕には雑多に野ざらしにしている様にしか見えませんでした。

屋内展示の機種では、どうしても触って確かめたい機体があり、そのIL2シュトロモビク(地上攻撃機で空飛ぶタンク)を見つけて、機体下部を触っていた時に軍服の老人が近づいて来て、突然ロシア語でIL2の解説をし始めましたが、殆ど内容は分かりませんでした。

屋内展示機はミグ、ポリカリポフ、ヤク、ラグ等のソビエト、ソ連時代の代表的な機体が在り、マニアにとっては貴重な機種が多く展示されていました。その日は郊外の「星の街」に行きましたが、街に入る所にゲート・ガードのミグ21がデスクトップ・モデルの様に飾られていました。東欧圏諸国とロシアではミグ15、21(ポーランドでは野外展示して在ったミグ21は2000ドル!)は大量生産された機体で、東側の国では街の入り口に飾られているのはよく見ました。

その街では飛行場の横にある建物に行き、モデラー(?)と入口に近い部屋でモデルを見せて貰い、買いたいと言ったら、ここでは渡せないので外の車の中で待つように言われました。

10分ほど待っていると、打ち合わせした人が手提げ袋を目立たないように持って、通用口の係員に見つからないように車まで来て、車の中で商談をしてお金を払いモデルを貰いました。

この日は、夜に現地の編集者と会う約束があったので指定されたレストランに行きましたが、そのお店は着物風?な上着を着た変なウェイトレス嬢がいる日本風のレストランでしたので、3人でスキヤキ(一人前150ドルだった!)を頼みました。ウェイトレス嬢はスキヤキのセットを持って来るなり料理(?)を始めましたが、日本で食べたスキヤキの味と見た目は相当違っていました!

3日目はモスクワ市内に在るモデル・ミュージアムに行き、モデル(殆どがロシア機)を見学させて貰いましたが、展示しているモデルの中で何か売れるモデルは無いのかと聞いたところ、Mig19が2機(ホントカナ?)あるので売ってくれると言い、又もや外の車の中で待ってくれと言われましたので、入り口の正面に置いた車の中から入口を見ていると、前日と同様に手提げ袋にモデルを入れて入口の係員に見えない様に外に出てきて、車内で値段の交渉をしてモデルを買いましたが、これがロシア式の交渉なのかなと思いました。

次に行った所は一軒家で、ドアをノックすると黒のレザージャケット姿の用心棒にしか見えない男性が対応して、ドアを開けるとすぐに部屋になっていて奥の壁のコーナーに大きな机の奥に、今回の打合わせの相手が座っていました。

その人物は、自分から元将軍(?)と名乗ってモデルを送る時は軍の輸送機関を使えると言いましたが、胡散臭い感じがしました。

机の上に置いてあった装甲車のモデルの値段を聞いたら60ドルと言われましたが、色々な話をすると益々怪しく思えましたので、早々にこの場所から去った方が良いと思ったので、机の上にあった装甲車のモデルを買って穏便に帰ろうとして、再度値段を聞いたら240ドルと意外な値段を言われました。さっき迄60ドルと言っていたのに!

仕方なく装甲車のモデルを買ってホテルに帰りました。それまでにも色々な国の模型製作会社とモデラー達に会いましたが、これ程怪しい人に出会ったのはロシアならでの事と思いました。その時の装甲車のモデルは今でも記念に持っています。

4日目は地方から来て貰った、ロシアでは珍しいモデル製作会社社長に会い、持ってきたモデル(Tu144*1/48)を見せて貰いましたが、後に地方都市のこの会社にはドイツから2回行きました。

その日は時間があったので、夕方にジーマ氏と初めてモスクワの地下鉄に乗って初めて赤の広場に行きました。広場と建物は素晴らしいと思いましたが、僕にはキーウェストの方が感動的でした。

帰りにホテルの近くの屋台でジーマ氏が丸いパン(1個20円位)を2個買ってくれましたが、モスクワのレストランやホテルの日本食レストラン(ベトナム人の経営)で食べた物より一番美味しかったのは只の丸いパンでした。

帰りの日はタクシーでシェレメチボ空港に行きましたが、ロシアの空港の出国は最初に係員が手荷物とトランクを空けて調べるので、西側の様にXレイでトランクを透視するのではなくて、係員が目視で荷物やトランクを空けさせて調べるので、相当時間が掛り列に並んで居たら、丁度係員が交代する時間になったらしく、係員が一斉に居なくなると、何列か並んでいた人達が一斉に荷物やトランクを持ってその場を通り過ぎました。

勿論!僕もその場を通り抜けてJALのボーディング・カウンターに行きましたが、そこで発券係のオバチャン(ロシアは働いているオバチャンは厳しい)が、僕の持っていたモデルの箱を機内持ち込みに対してオバチャンはロシア語で何やら言ってましたが、側にいたJALの若いロシア人男性スタッフ(日本語が喋れた)がオバチャンを完全に無視して行かしてくれました。

機内に持ち込むモデルのダンボール箱を持って歩いてたら、黒皮のコート(東側は何時も同じファッションで昔のKGB!)を着た人が僕に近づいて来て、パスポートと箱の中身と幾らドルを持っているかと聞かれましたが、何時もの様に300ドルとカードを見せて

何事も無く待合室に行きました。

西側の国では、こんな質問を受けた事は一度も有りませんがロシア、ウクライナでは何度もありました。それにしても、旧態依然のファッションは如何にかならないのかな! 昔のソ連のKGB(秘密警察)のようでイメージ悪すぎ!!

 

2017/06/27 ヒコー少年回想録5

1980年早春、その日も北原照久さんに夕食を誘われて、門前仲町のマンションに向かって青山通りを走っている時に、外苑前から僕達の車の前に小さなスポーツ・カーが来て、その車と5分ほど同じ方向に走った時に北原さんが、この車は可愛いね何と言う名前なのと聞かれたので、MGミジェットと言ったら、この車を買うのならティン・トイを買う人を見つけてくれると言うのです。僕はそれまでに各地で集めていた物と、ニューヨークで買った多くのティン・トイを持っていたのです。

当時は参宮橋に住んでいて免許を取ったばかりで、夜は自転車で環6通りにある、フィアットのショー・ルームに展示していたX1-9(MRでベルトーネのデザイン)を見に行くのを楽しみにしていました。そんな時に北原さんの一言でMGミジェットを買う事になり、その後13年間は英国のオープン・スポーツ・カーにハマッテ仕舞いましたが、それは英国車との濃密な楽しい時間でした。

最初のMGミジェットは納車されてから11ヶ月の運命でした。

1981年1月23日に運命の日を迎えました。甲州街道と西参道交差点横の水道局資材置き場下に埋めていた本管が破裂して西参道が川の様になり、僕の住むマンションの脇道まで水が流れ込んでいて悪い予感がしましたが、川になった西参道を冷たい水の中を膝まで浸かりながら渡りました。

甲州街道から参宮橋駅に向かう西参道の右側は下り坂になっていて、そこにはショッキングな光景が広がっていました。数棟の家が屋根の近くまで水没していたのです。その日は晴れでシュールな光景でした。

僕のミジェットは首都高下の西参道から一段低い所のマンション地下に置いてありましたが、その時は駐車場には近づく事も出来ず、夕方に水が引いてからマンションに行きましたが、地下の駐車場の水中で物言いたげそうにヘッド・ライトが灯いて哀れでした。

翌日の昼に駐車場の水を水道局が強制的に排水して、ミジェットのカバーを取りドアを開けてメーター・パネルにキーを差し込んで回しましたが、エンジンは勿論動きませんでした。ディラーのレッカー車が来てバンパー下のフックにワイヤーを掛けて引いて行かれる様は、何か胸が熱くなるものがありました。

約1ヶ月後にディラーから届いた明細書を見ると、そこには当時のポルシェ911が新車で買える様な額で、しかも全部のパーツは揃って無く修理代も書いていない明細書でした。当初、水道局の担当者は車を修理する気でしたが、この明細を見た途端に担当者の二人は全額補償の書類を用意してくれました。

次のMGミジェットを探しましたが、その時点では生産は終了していてプレミアが付いていたのです。ディラーからの連絡で埼玉県のサブ・ディラーに1台在庫があり、直ぐに行って買いましたが、ラジオも付いていない素の状態でした。このMGミジェットには2年程乗っている間に四国や九州まで行きましたが、その間に前のミジェットと同じ箇所が調子悪くなり、故障する度に僕のティン・トイはパーツ代や修理代に化けてしまいましたが、車の事は色々と勉強になりました。

次の車は注文して1年6ヶ月以上待って納車されたのは、英国車のケーターハム・スーパー・セブンで、アルミ・ボディのパイプフレームでボディは二人で持てる重さでしたが、レーシング・カーと棺桶に片足を突っ込んだ様な車でした。1984年当時、セブンは国内に200台程しか無くて、都内でも1年に1台見られるとラッキーな時代で、ケイターハム・セブンとの約11年(エンジンの違う3台)は僕の車人生の中で一番超濃密な時間でした。 このケーターハム・スーパー・セブンの為に、英国サリー州ケーターハム・ヒルズの本社に行った話しは次の機会に。

2017/06/27 ヒコー少年回想録4

ヨーロッパに行った時は必ずロンドンに寄っていましたが、何時もピカデリー・サーカスのシスル・ピカデリー・ホテルに泊まっていました。

ホテルの周りはお土産物屋とチャイナ・タウンと映画館と小公園などがあり、昼間から大道芸人や観光客で夜中まで騒がしく、まるで新宿のようでした。歩いて昔の野菜市場跡のコベント・ガーデンに行く途中に、モーター・ブックス(飛行機・船・車・機関車の専門店)やミニ・カーの店とシガレット・カードの店があり、何時も寄っていました。

ホテルの直ぐ近くにノーザン・ラインのピカデリー駅があり、毎回コリン・デールにあるロイヤル・エア・フォース・ミュージアム・ヘンドンに、昔の大戦機を見に行ってました。このミュージアムには1985年以来何回訪れたか分からない位来ていますが、何時も感心するのは展示の機体が徐々に綺麗になっているか1985年に観た当時のままを維持しているのは流石イギリスだと思いました。

バトル・オブ・ブリテンの建物に置いてある、大型飛行艇ショート・サンダーランドは90年代までは機体内部に入れませんでしたが、2001年に訪れた時は、機首のドアより入って機体内部を見れるようになっていました。日本のミュージアムではこんな事は無く展示機は傷むままに展示しているのが普通です。(メンテンスはしているのかな?)

電車に乗って1時間ほどでケンブリッジの近くにあるダックス・フォードに何度か行きましたが、ここのミュージアムと飛行場はエア・ショーの時に訪れました。ハンガー内では大戦中の英軍機や米軍機がフル・レストアされていて、それらを見学出来ますし、側にいるレストアラーに質問をする事も出来ます。

外では引っ切り無しに第二次大戦機の英軍機と米軍機が飛行するのですが、テントを張った色々なお店があるので、そこで飛行機関係のグッズを買うのを楽しみにしていました。エア・ショーに3回目に訪れた時に、その日のメインのシー・ビクセン(50年代艦上ジェット戦闘機)が飛行しているのは流石イギリスでした。会場に貼られていたシー・ビクセンがレイアウトされた特大サイズのポスターを如何しても欲しくなり係員に聞きましたが、このポスターは売り物では無いので譲れないと言われました。そこで、奥の手を出して名刺を渡して、日本で航空機模型のお店を開いてると言ったら、簡単にポスターを譲ってくれました。(このポスターは今でも所有しています)

他の国も同じですが、航空機模型関係のお店を開いてると言って名刺とカタログを渡すと急に親切になるのが常でした。それでアメリカではダゴ・レッドのカウリングをリノ・エアレースの優勝パイロットのブルース・ロックウッド氏から買う事が出来ましたし、何度か良い思いをしました。

ダックス・フォードのミュージアムには写真でしか見た事が無かった、ウエストランド・ライサンダー(第2次大戦中の高翼機)も展示しているのです。この機体は高校生の時に片道約55Kmを自転車でエァフィックス(イギリス製)見たさに、高松まで行ってウエストランド・ライサンダー(1/72)のプラモデルを¥200で買った事がありました。

ダックス・フォードには、その他にも戦車とアメリカ機のミュージアムがあり、アメリカ館には第2次大戦機から大型爆撃機のB-52まで展示していて、建物内に一部の機体が立体的に展示されていて、僕の好きなミュージアムのひとつです。

2017/06/27 ヒコー少年回想録3

中学生から高校生の時が屈託無くプラモデルを作れた時でした。

京都府宇治市伊勢田町から香川県観音寺市に移転して、最初に市内で探したのはプラモデル店と本屋でしたが、どちらも僕の満足するお店では在りませんでした。

この頃になると、プラモの箱絵や解説書以外の塗装を試したくなり、貸本屋の少年雑誌に載っている特集記事や口絵を集め、中学生の時に発売されたピラー社のラッカーを買いましたが、限られた御小遣いの中ではプラモを買うのが先でした。

ラッカーの各色を集めるのは無理で、基本色の5色(黒、白、赤、黄、青)とシンナーを買い、航空雑誌に載っていた色の配合表で、それまで分らなかったオリーブ・ドラブやダッグ・エッグ・グリーン等の色を作る事が出来ました。

中学生の時に本屋に注文してから約1ヶ月間待って、一冊のプラモ・ガイド(¥150)が届いて、それ以降はプラモ・ガイドが僕のバイブルになり、今でも全冊を持っています。

中学生の時は日本製のプラモで1/70~1/75スケールをメインに作っていましたが、そのスケールのプラモは¥100(外国製は同スケールで¥200~¥280)で、僕の経済力ではそれらのニチモ、三和、マルサン等のプラモを買うしか無かったのです。

高校生になってからは、僕のお気に入りはLS社の1/75シリーズでしたが、久々に発売された隼二型を作り、LS社の新製品を待ちましたが、この会社は新製品の広告は早く出るのに、製品は何ヶ月も待ってから観音寺市の模型店に入荷するのが常でした。

高校生になって、それまで買えなかった米国レベル社が日本のグンゼ産業と提携した結果、レベル社の1/72(¥240)プラモは¥100になりました。

それ以降は1/72スケールの中心はグンゼ/レベルになりましたが、このシリーズのニューポールとアルバトロスを作ったお蔭で、第一次大戦の複葉機を多数作って、一時期は第一次大戦中と大戦以前の複葉機にハマッテしまい、他のメーカーの複葉機も作りました。

中学3年の時から1/50と1/48はマルサン(リンドバーグ/ホーク/モノグラムのコピー・モデル)の安いプラモを買っていましたが、1/48のP-51D(ホークのコピー)をギラー少佐の赤色(当時は赤でしたが、本当はオリーブ・ドラブ)と銀色、機首のチェッカー、胴体のCYGのレタリング等、無謀にも全て筆塗りで挑戦した事もありました。

高校1年の正月に多度津の母の実家で予想以上のお年玉を貰い、丸亀駅の近くの路地裏に、趣味が高じて家の一部で模型店を開いている変わった店主の居る模型店でしたが、その店では一番高価なモデルは奥のケースの目立つ所に飾っていて、夢にまで見た念願のモノグラム社のP-51Dムスタング(1/32¥1200)を買いました。

このプラモは、キャノピーは開閉可能で胴体下のダイヤルを廻すと主脚と尾脚が連動して主翼と胴体に収まるし、ダイヤル側の左右のレバーを動かすと左右翼下の爆弾が落ちました。当時の日本のプラモデルでは可動が流行っていましたが、どのプラモもモノグラム社の比では有りませんでした。

高校2年の夏休み前から作っていたグンゼ/レベルのMe109E(1/72)を、ある航空雑誌に載っていた海洋塗装(?)にして東京で開催されたオールジャパン・レベル・コンテストの高校生/一般の部で応募しましたが、忘れた頃に桐の箱に入った銅賞の賞状とメダルが送られてきました。僕のプラモデル歴の中で、最初で最後の受賞となりました。

受賞したモデルはアメリカに送られて持っていませんが、中、高生の時に作ったプラモの一部は、今でも実家に置いています。

<<前へ 次へ>>