矢野雅幸ブログ

ヒコー少年回想録23-セブンと香川

投稿日時:2019/01/12(土) 21:10

1990年の夏にセブン仲間と二人で四国の香川県と愛媛県に行った話しです。
80年代はスーパー・セブンで箱根を越えて行ったセブンは無いと言われていた時に(実は鈴鹿サーキットにセブンは行っている)、僕達は晴海埠頭から徳島行フェリーに、2台のセブンを載せましたが、フェリーで最初に行ったのはレストランでした。
東京の夜景を観ながら食事をして船室に行ったのですが、部屋は8人部屋で暑かったのを憶えています。
徳島港に着いたのは午後1時頃で、フェリーからセブンを降ろしてから国道11号線を香川県方面にセブンを走らせました。屋島に着いた時にセブン2台で頂上まで走りましたが、途中で僕のセブンの後ろから異音を感じて車を止めて車体の下を見たところ、リジッドアクセルの真ん中を止めているチャップマン・ストラットのテフロン・ブッシュが潰れて外にはみ出していました。東京だとパーツを買って自分で取り付けれるのですが、ここは香川県でディラーも修理工場も在りませんので、セブンを騙しながら走らせて実家まで帰りました。
旅の初日から困った事になったと思いましたが、僕のセブンを組み立ててくれた時に、シルバーストーン・ガレージの花村さんが高知に一人セブンのオーナーが居て、時々連絡が来ると言っていたのを思い出して、花村さんに電話して事情を話したところ、高知のセブン・オーナーの電話番号を教えてくれました。
早速、高知の人に電話して事情を話し、彼がゴム・ブッシュを持っているのが分りましたので、午後8時に高知と香川の中間位の池田駅で待ち合わせをして、仲間のセブンに二人乗りして真っ暗な山道を山越えして池田駅に行きました。
高知のセブン・オーナーは我々より先に池田駅に着いていて、挨拶もそこそこに二人が乗ってきたセブンの話になりました。東京でも滅多にセブンには会わないのに、高知でセブンを維持するのは大変だと言う話を高知のセブン・オーナーから聞きました。
80年代はケーターハム・セブンとロータス・セブンは日本に200台位しかなくて、セブンが1台も無い県は相当在ったようですので、高知のセブン・オーナーが僕達からセブンの話や情報を知りたがっていたのは良く分りました。
2時間くらい人気の無い池田駅の前で、セブンの事を色々話してからゴム・ブッシュを貰って、真っ暗な山道を1時間かけて観音寺市に戻りました。
翌日に友達のガレージを借りて、道具を使いゴム・ブッシュを入れましたが、1個のパーツで走れなくなる事の怖さが分りました。その日は暑かったのですが、午後から予約していた松山の道後温泉のホテルに行きましたが、セブンが2台で走っているのは松山市内では余りに目立ちすぎて、映画「イージーライダー」の雰囲気だったので早々にホテルの駐車場に入れました。
その日は道後温泉の風呂に入って久し振りにのんびりしましたが、松山市内(当時の愛媛県にはセブンは在りませんでした)ではセブンが僕達が思っていた以上に目立つので、翌日は昼食をホテルで取り、そのまま何処にも寄らず高速に乗って観音寺市に帰り、室本から仁尾町まで海沿いの道を通り、殆ど車とすれ違わない荘内半島を回って、詫間町に行ってうどんを食べてから近道の丘越えの道で、薄暗くなった上り坂を仁尾町に走りました。上り坂の途中で人が車の前に飛び出して来ましたが、その人は警官で止まれの旗を持っていました。上り坂の左にお墓があるのですが、そこで計測していたのです。
僕は気が付きませんでしたが、セブン仲間は気が付いてスピードを減速して違反にならなかったのですが、警官の一言で僕がその坂でスピード記録を作ってしまったのが分りました。
その道は40キロ制限だったのですが、上り坂で僕は100キロを出して、坂を上ってしまい新記録(この記録はあの田舎道では破られていないと思います)を作ってしまいました。
取締りをしていた警官達が、2台のスーパー・セブンの側に寄ってきてナンバーを確かめてから「この車はナンナー」と方言で聞いて来ましたが、「スーパー・セブン」と一言だけ言って、違反キップを書く為にT字路に置いてある机にいきました。
僕は殆ど車が通らない、こんな田舎道で速度取締りをする必要に疑問だらけでしたが、セブンを止めた場所はT字路で、その道を進んで行くと高瀬警察署があるのです。ナルホド!!
この違反の件は、東京に戻ってから検察に行ったり、田舎の裁判所に行ったりして約1年くらい色々な経験をしましたが、結局、免許証は2時間しか僕の手から離れませんでしたが、反則金は8万円になりました。
この顛末はまたの機会に・・・!

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矢野雅幸(やの まさゆき)
大学卒業後、CBSソニーレコード(当時)に入社。27歳で独立、フリーのデザイナーとして「ビタミンスタジオ」を設立。数多くのアーティストのレコード、CDジャケットのデザインを手懸けている。その後東京 南青山の骨董通りにデスクトップ/ミュージアムモデル専門店「ウイング クラブ」をオープン。この種のモデルの国内における認知を高めると共に、独自のジャンルとして定着させた。