矢野雅幸ブログ

ヒコー少年回想録25-2003年 ウクライナ

投稿日時:2019/01/12(土) 21:26

2003年頃の冬にウクライナのモデラーに会った時の話です。
ウクライナに行く為に、いつもフランクフルト経由で行っていましたが、フランクフルト空港の地下には飛行機関係のお店があり、乗り継ぎの3時間くらいの間で、その店でDVDや本を買うのを楽しみにしていました。ウクライナ行きのロビーは、フランクフルト空港の中でもロシア行きと同じように、空港の端にロビーが在り暗い感じでした。ウクライナの空港は、ロシアの地方の空港に似ている感じで、空港内のエプロンには西側の空港では見ないYak25、Il76等が駐機していました。
最初のロビーでは、通訳が頼んでいた空港職員が僕を待っていて、イミグレーションの職員に、その空港職員が僕のパスポートと記入した書類を見せると1分もしない内にスタンプを押し、ロビーに出て通訳に会いましたが、そのイミグレーション・オフィサーの前には少なくとも50人以上が並んでいました。後で通訳に聞くとその空港職員に40ドルを渡したそうです。西側の空港では信じられない事が、共産や社会主義国では普通の事だと後で聞きましたが、共産主義や社会主義は全ての人に公平じゃなかったの!?
通訳のモロゾワさんがロビーで待っていて、空港を車で出てホテルに行きましたが、空港から20分位で街に行く橋を渡ってから、公園の坂道を上がったカーブの左にホテルは在りました。キエフの同じホテルに5~6回くらい泊まりましたが、ロシアと同じ様に受付カウンターでパスポートを強制的にカウンターの人に取られました。エレベーターで部屋の階に行ったら、その階の廊下に机にイスに座ったオバチャンが僕に声を掛けてきて、部屋の番号を確かめてから机の上の紙に何かを書いていました。今は、そのオバチャンは居ませんが、オバチャン達は何処に行ったのかな?
部屋に入って直ぐに気になったのは、5階の道路に面した部屋でしたが車の路面の騒音でした。恐らく東西冷戦時代に建てたホテルだと思いますので、泊まる人の騒音や快適性は考えて無い部屋でした。道路の向かいには共産党本部の建物があり、右には公園の林が見えるロケーションのホテルでした。このホテルで良かったのは朝食のビュッフェで、1階のエレベーターの横にその部屋は在り食事はビュッフェ形式でしたが味も良く、生でピアノの演奏(曲は分りません)をしていました。
翌日は朝10時に通訳のモロゾワさんがロビーで待っていて、直ぐに外に止めていた車(トヨタ)で、キエフの街を横断して高速道路(?)に乗ってモデラーの町に行きましたが、途中にパーキング・エリアが無かったので、普通の広い道路だと分りました。道路に警官が時々立っていて車を止めていましたが、通訳のモロゾワさんに言わせると、警官が小遣い稼ぎの為に車を止めて難癖を付けているそうです。日本では考えられないですが!
この道路はオデッサまで行くそうですが、僕は映画の「オデッサ・ファイル」を思い出しました。
モデラーの住む町にはキエフから1時間位で着きましたが、モデラーの家を探すのに手間取ってしまい、村の端まで行ってやっと見つけましたが、車から携帯で連絡したところモデラーが外に出て来ましたが、裸足のサンダル履きで雪の上を歩いて車の所に来てモロゾワさんと話してから家に入れてくれました。
モデラーの話しでは、この家は農家で回りは50m位離れた所に数件の家が在り、それ以外は森と池があるだけでした。彼の工作室は居間で、机の上に色々な工具と作りかけのアルミ製のP−38とそれに使うパーツが無造作に置かれていました。
モデラーは元々はキエフ市内に住んでいたのですが、この町に引越して来たそうです。前にキエフ市内の彼のアパートに3回行きましたが今度の農家も部屋は同じ様に乱雑な居間で、この農家には欠点が一つ有って家にトイレは無いそうです。冬の雪の降る夜は寒いだろな~!
作りかけのアルミのP−38を前にして、モデラーと色々な打ち合わせをしましたが、このモデラーは最初に会った時からアルミのモデル製作以外は何も興味は無いように思われました。
夕方にキエフに帰ってから、ホテルの近くに在ったガラスのウィンドウの御惣菜屋(?)で食事しようと思い、その御惣菜屋に入りましたが、店員が僕の簡単な英語が分らなくて、僕は店員のウクライナ語が全然分らなくて食材を指して買いました。その食材を店内にある机に持って行き、食事をした後ホテルに帰りました。
次の日は朝から通訳とキエフ市内のモデル製作メーカーに行きましたが、そこは2階建ての建物で中に入ると1階の数部屋が工房になっていました。最初に入った部屋に責任者が居たので、どんなモデルを作っているのか見せて貰いました。最初に見せてくれたのは日本機の零観でしたが、機体の色が黄緑で不思議な色のモデルでした。他のモデルは余り馴染みのないソ連時代のモデルでしたし、木を使って作っていました。
次に行ったのは古い建物のお店でしたが、外からは見えなくて通訳のモロゾワさんが、僕の為にこのお店を探してくれていました。
このお店で驚いたのは、実銃が何丁も置いてあり売っていましたが、色々な銃器の中にアメリカ製のトンプソン・マシンガンが売っていた事です。もしかしたら、アメリカがWWII中にウクライナ、チェコ、ルーマニアのドイツに対するパルチザンに貸与した物かと思いました。そのお店ではロシア製の飛行機を膝元に置いた少年の陶器の置物を非買品でしたが、凄く気に入ったのでお店の言い値の25ドルで買いました。
その陶器の置物は気に入ってますので会社に置いています。
それにしてもウクライナのモデラー達は、木、レジン、アルミと極端に違う材質を使用して、モデラーやメーカーがモデルを作る国も珍しいです。

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矢野雅幸(やの まさゆき)
大学卒業後、CBSソニーレコード(当時)に入社。27歳で独立、フリーのデザイナーとして「ビタミンスタジオ」を設立。数多くのアーティストのレコード、CDジャケットのデザインを手懸けている。その後東京 南青山の骨董通りにデスクトップ/ミュージアムモデル専門店「ウイング クラブ」をオープン。この種のモデルの国内における認知を高めると共に、独自のジャンルとして定着させた。