矢野雅幸ブログ

ヒコー少年回想録31-最初と最後に作ったプラモデルの話

投稿日時:2020/06/22(月) 21:46

僕の飛行機プラモデル歴で、最初に作ったモデルと最後に作ったモデルの話しです。

小学3年の時に北海道の滝川に住んでいた頃に、友達の家で見た少年クラブの広告でプラモデルを知りましたが、その当時はプラモデルと言う名称では無かったと思います。その頃は木製のソリッド・モデル全盛の時で、プラモデルは模型屋に行っても箱やビニール袋に入った木製の大体にカットした物で、それらを削って組み立てて色を塗る様なキットしか有りませんでしたし、プラモデルは滝川市には売って無くて広告の中でしか見た事のない物でした。

父親が兵庫県の伊丹市に転勤した時に友達になった家で、プラモデルのマルサンの零戦52型(1/35)を初めて見ましたが、それは今まで見ていた木製モデルとは全然違い、プラスティックで成形されていてキャノピーは透明で、胴体と主尾翼にリベットがあり、デカール(その当時はスライドマークと書いていた)と、全体の作りにカルチャーショックを受けたのを今でも覚えています。

小学5年の時に街中に移転したのでバス通学になりましたが、バス停の前と阪急電車の駅横に売店があり、そこに新聞や雑誌の横に数点の三共のピーナツシリーズ(1/150)が置いてあり、毎日通学の時に見ていましたが、如何しても1機欲しくなり必死でお小遣いを30円を貯めて、いつも通学の帰りにその売店に寄り道をしてピーナツシリーズで97艦攻が一番大きそうだったので、その売店で買いました。このピーナツシリーズの97艦攻が僕のプラモ歴の第一号目になりました。

伊丹市に住んでいる時に、正月が2回あったのでお年玉を貰う度に梅田の阪急デパートで最初の正月はマルサンの飛燕(1/50*¥250)を買いました。次の正月はマルサンの疾風(1/50*¥280)を買いましたが、玩具売り場の横に在ったプラモデル売り場は大人達で混んでいました。その隙間のガラスケースに張り付いて見えたのは、モノグラムのB−26でしたが、外国製のプラモデルを見たのは初めてで箱絵も日本製より迫力があり気に入りましたが、小学生の買える値段ではなかったです。

小学6年の時に京都府の宇治市に移転しましたが、プラモデルはマルサンの1/100シリーズを作る様になりました。

中学1年の時に実家の香川県観音寺市に帰って来ましたが、今までに住んだ所と違ってプラモデルは日本製しか無い町でした。

それでも高校生になってから、自転車を手に入れてからは他の町や市に行ってプラモデル屋を探して見つけました。高校の時は外国製のモノグラムやレベルを作れる様になりましたが、当時の日本製と決定的に違っていたのは、キャノピーの透明度とデカールの質の良さでした。

大学生になって福岡県に行ってからは、大学の近くの香椎に住みましたが福岡市内に模型専門店を見つけて、その店に通っていました。大学の時はプラモデルは時々買っていましたが、資料がないと作れなくなり4年間で作ったのは6機でした。最後に作ったモデルはレベルのMe262A1a(1/72)でした。ウイング・クラブの店を始めてからミュージアム・モデル(1/18)の最初の入荷機は、偶然かも知れませんがMe262A1aでした。

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矢野雅幸(やの まさゆき)
大学卒業後、CBSソニーレコード(当時)に入社。27歳で独立、フリーのデザイナーとして「ビタミンスタジオ」を設立。数多くのアーティストのレコード、CDジャケットのデザインを手懸けている。その後東京 南青山の骨董通りにデスクトップ/ミュージアムモデル専門店「ウイング クラブ」をオープン。この種のモデルの国内における認知を高めると共に、独自のジャンルとして定着させた。