矢野雅幸ブログ

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ヒコー少年回想録24-1976,1977 ニューヨーク~北原さんの家へ

投稿日時:2019/01/12(土) 21:17

今回は1976、1977年の話しです。

ニューヨークに行ってからは、日本では経験しないような事が、ニューヨークでは普通のように起きていました。
デザインの勉強(スクール・オブ・ビジュアル・アーツの夜間部に通っていた)とティン・トイ、ライブ・ハウス、ロック・コンサート、映画、デザイン関係の資料になりそうな本とかが沢山あり、日本で見た事の無い物ばかりで、毎日、何かしらの発見があり刺激的な毎日でした。
10月の昼過ぎにダウン・タウンに向かっていた、僕の乗っていたバスが交差点の真中で、急にバスのボディを何かで叩く音がしたと思ったら、明らかに麻薬中毒ぽい白人の男が金属の棒でバスのボディを叩きながら平然と歩いて行きました。
バスの乗客はパニックになって、出口のドアに殺到してドアを叩いてました。バスは近くの交差点の角に止まって乗客は前の入り口から降ろされましたが、運転席のガラスは叩き割られていて運転出来る状態で無いのは直ぐに分りました。バスに乗ると時々窓ガラスに小さな穴が空いている時がありましたが、その穴はバスに向けて発砲された穴だと現地の人から聞きました。
時々、黒人の子供達がバスの後ろのバンパーに乗って無賃乗車をしているのは見ましたし、映画館に行ってスクリーンを観ていると決ってマリファナの臭いがするのが日常の出来事でしたし、ロック・コンサートに行くと、決まって隣の席の人からマリファナや何やら分らない錠剤(LSD?)が回ってくるのが普通でした。
当時のニューヨークでは映画みたいな事が何度もありましたし、経験しました。
僕は時々、5番街52丁目のCBSレコード部門のアート・ディレクターのエド・リー氏(アース・ウインド・アンド・フアィアー、ワイルド・チェリー、カンザス、ミート・ローフ等のデザイン)に会いに行って、彼のデザインしたレコード・ジャケットを見せて貰ったり、撮影に同行したりしました。フリー・レコード・ジャケット・デザイナーを紹介して貰ったのは、日本に帰って来てからデザインの参考になりましたし、NYで刺激を受けて沢山のレコード・ジャケット用にラフ・スケッチを描いたものは、帰国後、そのラフ・スケッチで10年間はレコード・ジャケットのデザインに生かせました。
12月にニューヨークからハート・フォードのトイ・フェスに行った時に、ニューヨークのトイ・フェスでも会ったサンフランシスコの人がいて、その人から日本に帰る時にサンフランシスコ寄って、自分の家に泊まってサンフランシスコのティン・トイのお店を見てからロサンゼルスに行って、それから日本に帰ったら如何かと言われ、サンフランシスコに寄る事にしました。
アメリカから帰国して、最初の2日間は渋谷の東武ホテルに泊まり、マンションを探すつもりでいましたが、翌日に北原照久さんに御土産とニューヨークの話しをする為に連絡したところ、ホテルを出て僕の所に泊まりなよと言われ、直ぐに荷物をまとめてホテルを出て山手線に乗り、北原スポーツ店に向かいました。北原さんの働いている北原スポーツ店は東京駅から歩いて4分位の所にあり、北原さんに久し振りに会い、御土産のティン・トイを渡して自分用のティン・トイを見せたり、ニューヨークの話や写真を見せました。夜は北原さんのマンションに行って、久し振りに旬子さんの手料理を食べて、ニューヨークの事で話が咲きました。
その日から北原さん宅に泊めてもらいましたが、北原さんは朝から仕事に行って、僕は住む所を探して昼間は下北沢、東北沢、梅ヶ丘、参宮橋等の小田急線沿いの不動産屋を回って部屋を見せて貰っていましたが、気にいる部屋は直ぐには見つからず北原さん宅に居候していました。北原さんが仕事から帰って来て、一緒に食事を食べてからデザートの時に、ニューヨークのティン・トイのお店の事や、ニューヨークでの生活の事や、郊外のトイ・フェスの事や毎晩話は尽きませんでした。
まるで千夜一夜のようでしたが、その頃は青山学院側に在るボートハウスが話題に上り、いつも北原さんが将来お店を開いて並んでいるお客に整理券を配るのは楽しいだろうねと言って皆で笑うのが常でした。
毎夜、食事の後のデザート時にティン・トイやニューヨークでの生活と経験した事を話して盛り上がっていて楽しい日々でしたが、ある夜に浜圭介さんが訪ねてきて、その後で浜さんの奥様の奥村チヨさんが訪ねて来て5人で色々な話で花が咲き、夜遅くなったので浜さん夫婦は北原さん宅に泊まりました。
僕は北原さん宅では居心地が良く、気が付くと1ヶ月以上も北原さん宅に長居していてマズイと思い、北原さんに参宮橋のマンションが気に入ったので入居する事にしたと言ったところ、以外な返事が返ってきました。
北原さんにその事を言ったら「もう出て行くの?」と言われました。なんとも面倒見のいい親分肌の人に感じましたし、その時に感じたのは北原さんは将来何か大きい事をやると思いましたが、それがトイズ・クラブ、クリスマス・トイズや色々な場所でのトイ・ミュージアム、鑑定団等の、今の活躍を予感させるような北原照久さんでした。

ヒコー少年回想録23-セブンと香川

投稿日時:2019/01/12(土) 21:10

1990年の夏にセブン仲間と二人で四国の香川県と愛媛県に行った話しです。
80年代はスーパー・セブンで箱根を越えて行ったセブンは無いと言われていた時に(実は鈴鹿サーキットにセブンは行っている)、僕達は晴海埠頭から徳島行フェリーに、2台のセブンを載せましたが、フェリーで最初に行ったのはレストランでした。
東京の夜景を観ながら食事をして船室に行ったのですが、部屋は8人部屋で暑かったのを憶えています。
徳島港に着いたのは午後1時頃で、フェリーからセブンを降ろしてから国道11号線を香川県方面にセブンを走らせました。屋島に着いた時にセブン2台で頂上まで走りましたが、途中で僕のセブンの後ろから異音を感じて車を止めて車体の下を見たところ、リジッドアクセルの真ん中を止めているチャップマン・ストラットのテフロン・ブッシュが潰れて外にはみ出していました。東京だとパーツを買って自分で取り付けれるのですが、ここは香川県でディラーも修理工場も在りませんので、セブンを騙しながら走らせて実家まで帰りました。
旅の初日から困った事になったと思いましたが、僕のセブンを組み立ててくれた時に、シルバーストーン・ガレージの花村さんが高知に一人セブンのオーナーが居て、時々連絡が来ると言っていたのを思い出して、花村さんに電話して事情を話したところ、高知のセブン・オーナーの電話番号を教えてくれました。
早速、高知の人に電話して事情を話し、彼がゴム・ブッシュを持っているのが分りましたので、午後8時に高知と香川の中間位の池田駅で待ち合わせをして、仲間のセブンに二人乗りして真っ暗な山道を山越えして池田駅に行きました。
高知のセブン・オーナーは我々より先に池田駅に着いていて、挨拶もそこそこに二人が乗ってきたセブンの話になりました。東京でも滅多にセブンには会わないのに、高知でセブンを維持するのは大変だと言う話を高知のセブン・オーナーから聞きました。
80年代はケーターハム・セブンとロータス・セブンは日本に200台位しかなくて、セブンが1台も無い県は相当在ったようですので、高知のセブン・オーナーが僕達からセブンの話や情報を知りたがっていたのは良く分りました。
2時間くらい人気の無い池田駅の前で、セブンの事を色々話してからゴム・ブッシュを貰って、真っ暗な山道を1時間かけて観音寺市に戻りました。
翌日に友達のガレージを借りて、道具を使いゴム・ブッシュを入れましたが、1個のパーツで走れなくなる事の怖さが分りました。その日は暑かったのですが、午後から予約していた松山の道後温泉のホテルに行きましたが、セブンが2台で走っているのは松山市内では余りに目立ちすぎて、映画「イージーライダー」の雰囲気だったので早々にホテルの駐車場に入れました。
その日は道後温泉の風呂に入って久し振りにのんびりしましたが、松山市内(当時の愛媛県にはセブンは在りませんでした)ではセブンが僕達が思っていた以上に目立つので、翌日は昼食をホテルで取り、そのまま何処にも寄らず高速に乗って観音寺市に帰り、室本から仁尾町まで海沿いの道を通り、殆ど車とすれ違わない荘内半島を回って、詫間町に行ってうどんを食べてから近道の丘越えの道で、薄暗くなった上り坂を仁尾町に走りました。上り坂の途中で人が車の前に飛び出して来ましたが、その人は警官で止まれの旗を持っていました。上り坂の左にお墓があるのですが、そこで計測していたのです。
僕は気が付きませんでしたが、セブン仲間は気が付いてスピードを減速して違反にならなかったのですが、警官の一言で僕がその坂でスピード記録を作ってしまったのが分りました。
その道は40キロ制限だったのですが、上り坂で僕は100キロを出して、坂を上ってしまい新記録(この記録はあの田舎道では破られていないと思います)を作ってしまいました。
取締りをしていた警官達が、2台のスーパー・セブンの側に寄ってきてナンバーを確かめてから「この車はナンナー」と方言で聞いて来ましたが、「スーパー・セブン」と一言だけ言って、違反キップを書く為にT字路に置いてある机にいきました。
僕は殆ど車が通らない、こんな田舎道で速度取締りをする必要に疑問だらけでしたが、セブンを止めた場所はT字路で、その道を進んで行くと高瀬警察署があるのです。ナルホド!!
この違反の件は、東京に戻ってから検察に行ったり、田舎の裁判所に行ったりして約1年くらい色々な経験をしましたが、結局、免許証は2時間しか僕の手から離れませんでしたが、反則金は8万円になりました。
この顛末はまたの機会に・・・!

ヒコー少年回想録22-ロータス・エリーゼS1

投稿日時:2019/01/12(土) 21:04

今回の話はロータス・エリーゼS1.

1994年に仕事でヨーロッパに行った時に、何時もの様にロンドンに寄りました。いつものヘンドン・ロイヤル・エアフォース・ムュージアムやコベント・ガーデンやモーター・ブックス等に行き、4~5日をロンドンで泊まるのを習慣にしていました。
帰りにヒースロー空港の売店で、表紙にロータス・エリーゼの見出しとシャシーの写真が載っていた本を買いました。機内で本の記事を見るとエリーゼのラフ・スケッチの絵が載っていましたが、それには車重870kg、118hp、アルミ・フライホイール、アルミ・シャシーと書いていました。
アルミ・シャシーの写真を見ただけで、エリーゼは箱根で走らせたら面白いのは分りましたが、パワーが車重に対して不足していると思いました。その前に乗っていたNSXは280馬力(車重約1200kg以上)だったので、エリーゼの118馬力はパワー不足に感じました。
約2年後にエリーゼを千葉の車屋(その当時はエリーゼのディラーは無かった)で買って、エリーゼの受け取りは代々木公園の原宿方面に向かった路上パーキングの一角でした。2時に待ち合わせをしていたので、ウイング・クラブのお店を1時40分頃に出て、タクシーで代々木公園に向かいました。代々木公園の入り口でタクシーを降りたら、代々木体育館の向かいにむき出しのトランポの荷台にエリーゼが載せられていました。トランポの荷台が傾いて、道路にエリーゼを降ろしてから受け取りのサインをして、コクピット・ドリルを受けました。
エリーゼを走らせた時に、直ぐに車体の軽さを感じましたがアルミ・ディスクは冷えている時は鳴くので、それだけは興ざめでしたが、ボディ・デザインはロータスの伝統を受け継いでいて凄く気に入りました。
早速、休みの日をとって箱根に走りに行きましたが、エンジンが新品なので余り回せんでしたが、車体の軽さとハンドリングの良さはロータスの伝統を受け継いでいるように感じました。
自宅から会社の通勤にエリーゼを使っていると、アルミ・シャシーとボディは何も問題無いのですが、エンジン下のアルミ製のアンダー・カバーが首都高速道路の継ぎ目でタワンで不愉快な音がするので、そのアンダー・カバーのタワミ止めは、スーパー・セブンで御世話になった花村さんのシルバーストーン・ガレージに頼みました。預けて3日後にエリーゼは戻って来ましたが音は消えていました。エリーゼの改造部品は大阪の店が作っていたので、最初にリア・ウインドウをアクリルに変えて、ロール・バーの上に付いてる幌用のパーツを取って、ヘッド・ライトにアクリル・カパーを付けました。ロータスの法則通り1gでも軽くする為に、後ろのロータスの文字も剥がしてしまい、トランクには何も入れませんでした。
箱根に何度も走りに行きましたが、エリーゼしか味わえない軽さをコーナーごとに感じました。ロータスは走る人の気持ちを判っていると思いました。

ヒコー少年回想録21ー音楽の話

投稿日時:2018/06/14(木) 22:31

今回は子供の時からCBS・ソニーまでの音楽の話です。

子供の頃は周りに歌謡曲しか流れていませんでしたので、普通に歌謡曲を聴いていました。小学4年の時に北海道から大阪の近くに転勤してからテレビで、それまでに知らなかった音楽が流れていました。その音楽は、アメリカのポップスを日本語で歌っているものでしたが、子供の僕には歌謡曲と比べて、その音楽は子供心に何か感じる物があり新鮮に感じましたがテレビの番組でしか、それらの音楽は聴けませんでした。

大阪、京都と転勤して、中学生になった時に香川県の観音寺市に転勤してからは、田舎の自然の良さは感じましたが、僕の趣味だったプラモデルに関しては大阪、京都に比べて不満でした。

中学生の僕は、家(100年位経った家で玄関の中に電蓄がありました)に在った50年代の古いラジオで、当時のポピュラー・ミュージックを聴くようになりましたが、家には映画音楽のソノ・シートしか有りませんでした。

中学3年生の時に親がポータブル・プレイヤーを買ってくれたので、化粧品屋のクラスメートからビートルズの中古シングル盤(ツィスト・アンド・シャウト)を売ってもらい、中学校から帰って来る度に、必ずそのシングル盤を毎日聴いていました。

中学生の頃はポピュラー・ミュージックを聴くのはラジオしか在りませんでした。僕は毎週ラジオで「9500万人のポピュラーリクエスト」(当時の日本人口は9500万人だったのかな?)を聴くのを楽しみにしていて、いつもヒット・チャートの1位~10位まで書いていました。

当時はエルビス・プレスリー旋風が去った頃で、日本ではビートルズとベンチャーズが台頭して来た頃でした。

高校2年生の時に無理やりクラス・メイトを集めてバンドを作りました。今では考えられない事ですが、母の実家で僕が作った3本のエレキ・ギターを、クラス・メイトが作った手作りの8Wアンプにプラグ・インして(スピーカーは1個だけでドラムは箱を叩いていた)練習をしていたら、近所から通報され、警察官が来て事情を聞かれました。

その頃はビートルズ(LPX1、SX2しか持ってなかった)、ベンチャーズ(LPX2)、加山雄三(なぜか‘恋は赤いバラ’のLPX1)しか家には無くて、それらを繰返し聴いていました。

当時の日本のグループ・サウンズの演奏はテレビで良く見ていましたが、それ以外はラジオで西日本放送の「タマル・ポピュラー・リクエスト」と本屋で立ち読みのミュージック・ライフでしか情報は入りませんでした。

高校生の時に来日したビートルズ武道館公演(1966年)はテレビで見ましたが、新聞に書いていた曲は初期の曲で、実際に演奏された曲は全然違っていました。

どう言う訳かNHKでCCR(クリーデンス・クリアーウォーター・リバイバル)のライブ・フィルムの放送があり、見ましたが、ジョン・フォガティが歌ってリード・ギターを弾いているのには驚きました。

姉が結婚する前に、今の御主人(レコード店だった)と松山であったベンチャーズ(恐らく1966年)のコンサートに行った時に、パンフレットを頼み買って来て貰いましたが、コンサート・パンフレットは初めてだったので、大切に見ていましたが実家に今でも在ります。

僕が高校生の時に姉がレコード店に嫁いだので、姉の主人からビートルズ映画の「ア・ハードデイズ・ナイト」のLPを貰いました。その頃は本当に音楽に飢えてましたので、そのLPを朝から晩まで聴いていたので大学に行く頃は雑音が酷くて、福岡でLPを買い直しました。

大学の1年~3年まではロックとジャズを聴いていましたが、4年生になった時に、テレビで「ナウ・エクスプロージョン」の音楽番組でジョニー・ウィンター(ジョニーBグッドを演奏していた)を見てから、急速にジャズに興味を失い聴かなくなりました。

大学の卒業制作は、ビートルズの4人を各人ずつをレコード・ジャケット・サイズの透明アクリルに自分でシルク印刷をしましたが、その1年後にレコード・ジャケット・デザイナーになるとは思っていませんでした。

卒業して東京にステレオを持って来ていたので、東京で最初に買ったレコードは池袋東武デパートで、ジョニー・ウィンターのLP「セカンド・ウィンター」でした。

CBSソニーに入社して、最初の仕事はボズ・スキャグスのシングル盤で「ダイナ・フロー」と言う曲でしたが、ボズ・スキャグスは、70~80年代にAORのジャンルを確立して、代表的なアルバムは「シルク・ディグリーズ」で、有名なミュージシャンになりました。

仕事でデザインしていたのは、ロック、ポップス、歌謡曲、現代音楽、等で、色々なジャンルでした。当時、個人的に良く聴いていたのはビートルズ、ジョニー・ウィンター、ジミー・ヘンドリックス、サンタナ、エリック・クラプトン、リック・デリンジャー、ビリー・ジョエル、マホガニー・ラッシュ、アルバート・キング、フレディ・キング、シュギー・オーティス、マイク・ブルームフィールド等、ロックとブルースでした。

CBSソニーに居る時に組んだバンドは、無謀にもジェフ・ベック、ディープ・パープル、ジミヘン等の曲を演奏していました。

1974年の年末に銀座のソニー・ビルに呼ばれて演奏しましたが、演奏する度にアンプにギターを擦り付けてフィード・バックやハウリング(僕達のは雑音)を起こしてメチャクチャな演奏をしていたら、気が付いた時には最初にステージ前にいた人達が、会場の後ろの方で固まっていました!!(笑)

勿論、翌年は呼ばれませんでした!!

ヒコー少年回想録20-高校3年の春

投稿日時:2018/06/14(木) 22:26

高校生の時はバンドとプラモデルと自転車(初めて持った自転車で、プラモを見る事と買う為に片道3時間も苦ではなかった)だけを熱心にやっていましたが、専門の勉強には全然興味が持てなくて、試験はクラスではいつもビリから2~3番を死守(?)していて、完全にオチコボレでした。但し電気回路図は適当に描いていましたが、それだけは点数が良かったです。

3年生になった春頃、職員室の側を通っている時に中から先生達の会話が聞こえて来ました。内容は何処の会社でも良いから生徒を就職させるという会話でした。僕は高校に入学した時から合ってないのが分ったので、1年生の冬休みに他の高校に変わりたくて親と担任に相談しましたが、あと2年で卒業だからと言われて納得させられました。

僕は本能的に、このままではマズイと思い大学に行くと親に言ったところ賛成してくれましたが、それまでに何の準備していなかったので兄に相談して、兄の通っている観音寺一高(映画「青春デンデケデケデケ」の舞台になった高校)の美術の教師を紹介して貰いました。土曜日の午後に面接をして、土曜日と日曜日の午後からデッサンをする為に非公式(正確に言うとモグリです)に美術部に入れて貰いました。

それからの高校生活は目的が出来たので、やっと充実感を得ましたが、余りにも勉強をしていなかったので毎日、多度津工業高校の向かいにある小学校横の町立図書館で勉強して、昼頃になると高校の食堂(汽車通学生が多かったので割りとチャントした食堂だった)に行きクラス・メイトと一緒に食事をしてから図書館に戻り、下校時に合わせて帰っていたら1ヶ月程して、担任の教師から母親が呼ばれて僕が高校に行っていないのがバレて仕舞いました。

当時、朝のテレビ番組で「ヤング720」を7時20分からその番組を見ると汽車(鈍行は1時間に1本しかなかった)に乗り遅れて次の列車で行くと1時間目の授業に間に合わない無いのですが、この番組はいつも色々なバンドが出演していて観るのを楽しみにしていました。

僕が一番印象に残ったバンドはファニー・カンパニーで、桑名正博氏がギブソンES335のブロンド(ナチュラル)でブルースっぽい曲(当時はブルースを知らなかった)のパワー・コードを弾きながら歌っていたのがヤケニ格好良かったのを憶えています。

僕は高校に毎日行ってましたが、いつもテレビを観てから行っていたので、一時間目は遅刻して校舎の外で待っていて二時間目から教室に行って授業とは関係無い勉強をしていましたが、その事と遅刻に関しては教師に注意されませんでした。

当時、僕の楽しみは家から自転車で5分位の観音寺一高美術室に土日に行ってデッサンをする事でした。

夏休みは観音寺一高(進学校だった)に行って課外授業を受けましたが、中学の時の友達は僕が教室に居るのを見て驚いた様子でしたが理由を話して課外授業を一緒に受けていました。大学に入学してから専攻のデザインは楽しくて、学校人生の中で興味のある事を一番勉強した時でした。

大学4年の時に二科展で入選した時に東京の会場で知り合った人が博多でデザイナー学院の先生をしていたので、デザイナー学院での授業に興味があったので、高校の時と同じ様に生徒として授業を受けさせて貰いましたが、これは良い経験になりました。

病気は選べないですが、人生は自分の決断と少しの運で如何にでもなるのですね!

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矢野雅幸(やの まさゆき)
大学卒業後、CBSソニーレコード(当時)に入社。27歳で独立、フリーのデザイナーとして「ビタミンスタジオ」を設立。数多くのアーティストのレコード、CDジャケットのデザインを手懸けている。その後東京 南青山の骨董通りにデスクトップ/ミュージアムモデル専門店「ウイング クラブ」をオープン。この種のモデルの国内における認知を高めると共に、独自のジャンルとして定着させた。