矢野雅幸ブログ

2019/10/26 ヒコー少年回想録28-観音寺の実家の話

 中学生の時に香川県観音寺市八幡町の実家に住みましたが、小学生の時に住んでいた伊丹市や宇治市とはまるで環境が違っていて、実家の家も親から聞いた話によると100年くらい経っている家と言ってました。玄関の中には何時頃の製品か分からない電蓄が置いて有りましたが、戦前の物ではなかったかなと思われます。
 家には水道が有りましたが井戸もありました。いつも夏は井戸でスイカを吊るして冷やしてました。風呂は別の小屋で五右衛門風呂でしたので、雨の日は少し濡れてその風呂小屋に行く必要がありましたが、その風呂小屋の横には真っ暗な薪の置いてある所があり、夜に風呂小屋に行くのは怖かったです。
 家の中は昔の家らしく全体に暗い感じでしたが、それまでに住んでいた都会の家と違って、実家の家は不思議と思える部屋と所が何箇所かありました。僕の部屋は2階で6~7畳位で階段が無くて木の梯子で、梯子を上に上げてしまえば誰も昇って来れない部屋で気に入ってましたが、部屋の床は板張りで上に畳みに似たような敷物をひいてました。
 夏は暑くて冬は寒い部屋でしたが、やっと自分の部屋が持てた事で嬉しかったので、その部屋で旧いラジオでポップスやロックを聴きながら卓袱台の机でプラモデルを作っていました。その部屋には窓が3ヶ所あって、裏の小さい窓の側にビワの木があり、夏はビワの実(小さい実だった)をとって食べていました。
 部屋には窓の側に小さめな襖があり、そこを開けると真っ暗な屋根裏があり襖の側に大き目の箱が置いてありました。その箱の中は5月に使っていた張子の虎とか小物が色々入っていましたが、小さい襖は暗い屋根裏を見ないように、その襖は開けないようにしていましたが、大き目の箱の中から粗く削られてペンキを塗ったモデルが出て来ました。そのモデルは第二次大戦中の一般の人が知らない米軍のB−17爆撃機でしたが、後に母親に聞いたところ、戦時中に兵隊が来て作った物を置いていったそうです。
 ある雑誌によると、大戦中は観音寺市の海岸近くに練習機用(海軍の93式中間練習機)の飛行場が有り、モデルを置いていったのはそこで練習していたパイロットではないかと思います。 
 兄の部屋は隅に襖があり、そこを開けると地面の部屋が在りその部屋は小さく電灯も点かない所に置いた瓶のような物が不気味でしたが、そこになぜ瓶のような物が置いているのか今だに分りません。
 薪を置いている隣の古家は、真中の部屋に父親の母のジツおばあちゃんが住んでいて、隣に6畳の部屋がありその部屋に中2階があり階段の上に引き戸が在り忍者屋敷のような部屋に思えましたが、中学生の時は、一度もその中2階の部屋には不気味に思い入りませんでした。母屋は中学3年の時に建て直したので、今は在りませんが時々懐かしく想います。

2019/10/26 ヒコー少年回想録27-最後に乗った車の話

最後に乗った車の話しです。
 ALSになり車を運転出来なくなりましたが、僕の最後の車はBMW550iツーリングとポルシェ・ケイマンSでした。ケイマンSは納車されたばかりでしたが、九州の福岡市のお客様からミュージアム・モデルの大き目のモデルを買って頂いていたのと、大阪のお客様もミュージアム・モデルの少し小さ目のモデルを買って頂いていました。福岡市のお客様もポルシェの同じ車種をオーダーしていてケイマンは発売直後で、僕はポルシエのデイラーにオーダーしていましたが約6ヶ月待って納車されました。 
 福岡市内ではケイマンが走っているのを見た事無いので、福岡のお客様からケイマンSを見せて欲しいと頼まれました。ケイマンSの慣らしも兼ねて2モデルを積んで大阪と福岡に行く事にしましたが、1機のモデルが大きいので助手席に置いて、もう1機のモデルは前のトランクに入れましたので、自分用のカバンは後部のトランクに入れました。ポルシェの凄い所は、RRとMRであれ荷物を2人分を積めて、高速で移動出来るスポーツ・カーとGT・カーにあると思います。
 以前ホンダのS2000を持っていたのですが、後ろのトランクにはミュージアム・モデルの箱は全然入らなくて助手席に置くしかありませんでした。ポルシェ・ケイマンSはMRなので後ろにも前にも実用的なトランクがあるので、ポルシェのパッケージングの良さが分りました。
 行きはデイラーから言われたように、エンジンの慣らしが終ってないので4000回転以下を守りながら大阪と福岡に行く事にしました。大阪には何事も無く豊中に着いて、お客様に納品を終えてから小学4、5年生の時に住んでいた伊丹阪急駅の近くのホテルに泊まりました。翌日は山陽自動車道を通り順調に進んで行きましたが、九州に渡ってから小倉の付近の高速道路上で突然渋滞してしまい(事故なのか分らないまま高速道路上で全部の車が10~15分位止まっていました)、予定していた福岡天神のホテルに6時まで着く事は出来なくて、結局ホテルに着いたのは7時過ぎになりチェック・インして部屋に入り、直ぐにモデルを持ってタクシーに乗りお客様のマンションに向かいました。お客様はモデルを待っていてケースにモデルを入れてから、お客様が予約していたレストランにタクシーで行き、休む暇も無くモデルをお客様に納品したので相当疲れていました。お客様はビールを飲んでから食事をしたので、僕もビールを飲んでから歓談しながら食事をしました。レストランを出たのは11時頃で、タクシーで泊まっているホテルに向かいましたが、途中で飲めないビールをつい飲んでしまったので気分が悪くなって来ましたが、お客様にケイマンSを見せるまでは気分が悪いのを無理やり抑えていました。
 お客様に地下のパーキングに止めていたケイマンSを見せて運転席にも座ってもらい色々説明しました。お客様をホテルの入り口でタクシーで見送ってから部屋に行こうとして、エレベーターの前に来た時に事件が起こりました。それまでは気分が悪いのを抑えていましたが、お客様が帰った安堵感からか、今さっき食事と飲んだ物を全て噴水のようにエレベーター・ドアと床に掛けてしまいました。
 深夜だったので客は誰もいなかったので助かりましたし、ホテルの従業員が直ぐに僕の側に来て、後の掃除は我々でやりますのでお客様は部屋でお休み下さいと言われましたので、従業員に何度も謝り部屋に行き疲れていたので直ぐに寝ましたが、翌朝は起きた時に、一番にフロントに行きましたがエレベーターの扉と床は何事も無く綺麗になっていました。フロントのマネジャーらしき人に昨夜の出来事を話して幾らか弁償しますと言ったら、何事もなかった様に対応してくれましたが、福岡に来た時は何年も前からそのホテルに泊まっていると言いたかったのですが、今後の事もあるので言わないでおきました。
 その日は東京に帰る日だったので、ケイマンSは約1500キロくらい走っていたので、福岡市内のポルシェ・ディラーでエンジン・オイル、エレメントを変えてもらい、そこから福岡高速に乗り山陽自動車道経由、名神高速で京都まで行き一泊して、東名高速で東京に帰って来ましたが、往復の距離は約2700キロを走っていましたのでケイマンSは一度の納品で慣らしが終りました。 
 その約4ヶ月後に、BMW550iツーリングで鹿児島のお客様に納品がありましたが、大阪に納品があったので家を早く出て大阪のお客様には3時頃に納品して、山陽自動車道で広島空港の側まで走って行き夜遅くにホテルに着きましたが、BMW550iツーリングで無かったら、一日で広島までは行け無かったと思いますが、
 昔、BMW530iツーリングでスタッフを一人乗せて、一日で福岡市まで行った事があり広島はそんなに疲れませんでした。
 翌日は鹿児島県の川内(センダイ)まで走って行きましたが、その日は鹿児島市内に泊まりました。翌朝は激しい雨の中をお客様の川内に午前中の10時に着く様に向かいました。モデルを納品して直ぐに福岡方面の高速に乗り下関埠頭から晴海埠頭(2日後に着く)に行くフェリーを見つけたので、車の乗船手続きをしてパーキングにBMW550iツーリングを置いてから、タクシーで下関駅に行きました。僕は新幹線で東京に帰って来ましたが、久し振りに乗った新幹線はヤッパリ楽チンでした!!

 

2019/10/26 ヒコー少年回想録26-60年代の話です

60年代の話です。小学6年の時に、其れまでに住んでいた都会から父の実家の観音寺市に移転して中学に入学しましたが、最初に感じたのは自然はあるがプラモデル屋が一軒しかなくて、後は文房具屋にプラモデルが少数置いているだけで不満でした。音楽も中学2年生の頃から、旧いラジオで「9500万人のポピュラーリクエスト」のポップスやロックを聴いていました。
 高校生の時は、リバプール・サウンドやマージー・ビートのイギリスの良い曲が多かったと思います。そんな中でもアメリカン・ロックのクリデンス・クリアウォター・リバイバル(CCR)やグランドフアンク・レイルロード(GFR)は聴いていました。数年前モンキーズの一人が亡くなりましたが、こうして伝説になるのですね!
 今でも、ビートルズは聴いていますが、デビューした中学の2年生の時から聴いていました。ビートルズは3年目ぐらいまで彼ら流のアレンジをして他人の曲を歌っていましたが、その中にオリジナルの素晴らしいバラードとロックンロールを作曲をして演奏しています。今、聴いても全然古臭く無く時代を超越していたのが良く分かります。僕がビートルズでベスト・アルバムを選ぶとしたら、初の全曲オリジナルの「ア・ハード・デイズ・ナイト」でしょう。このアルバムは同名の映画のサウンド・トラックで、田舎に住む矢野少年は2年も遅れて上映されたビートルズの「ア・ハード・デイズ・ナイト」を初日に期待ワクワクで観に行きましたが、映画館内には殆ど観客は居なくて、映画が終わって照明が点いた時に分かったのは、前方の席に座っていた僕の兄!!と館内には20人位しか居ませんでした。当時の田舎には、新しい音楽と文化は理解されていませんでしたが、仕方ないと思っていました。
 田舎でジミ・ヘンドリックスやクリームを聴いていたら犯罪者(これは、冗談ですが、田舎で変わった事をすると目立つ所でした)と言われる60年代でした。僕が高校生の時に組んでいたバンドではドラムだったので、父親から面と向かって不良呼ばわりされましたが、僕は内心父の世代にロックが分かってたまるかと思っていました! 余談ですが、大学に入学して福岡市に行って、やっとプラモデルと音楽にも満足状況になりましたし、1968年に貝塚の九州大学の建築中ビルに墜落したF−4E(?)ファントムに、土方のアルバイトで行った時にジェット・エンジンと機体に触る事が出来ましたし、外板の一部も手に入れました!

2019/01/12 ヒコー少年回想録25-2003年 ウクライナ

2003年頃の冬にウクライナのモデラーに会った時の話です。
ウクライナに行く為に、いつもフランクフルト経由で行っていましたが、フランクフルト空港の地下には飛行機関係のお店があり、乗り継ぎの3時間くらいの間で、その店でDVDや本を買うのを楽しみにしていました。ウクライナ行きのロビーは、フランクフルト空港の中でもロシア行きと同じように、空港の端にロビーが在り暗い感じでした。ウクライナの空港は、ロシアの地方の空港に似ている感じで、空港内のエプロンには西側の空港では見ないYak25、Il76等が駐機していました。
最初のロビーでは、通訳が頼んでいた空港職員が僕を待っていて、イミグレーションの職員に、その空港職員が僕のパスポートと記入した書類を見せると1分もしない内にスタンプを押し、ロビーに出て通訳に会いましたが、そのイミグレーション・オフィサーの前には少なくとも50人以上が並んでいました。後で通訳に聞くとその空港職員に40ドルを渡したそうです。西側の空港では信じられない事が、共産や社会主義国では普通の事だと後で聞きましたが、共産主義や社会主義は全ての人に公平じゃなかったの!?
通訳のモロゾワさんがロビーで待っていて、空港を車で出てホテルに行きましたが、空港から20分位で街に行く橋を渡ってから、公園の坂道を上がったカーブの左にホテルは在りました。キエフの同じホテルに5~6回くらい泊まりましたが、ロシアと同じ様に受付カウンターでパスポートを強制的にカウンターの人に取られました。エレベーターで部屋の階に行ったら、その階の廊下に机にイスに座ったオバチャンが僕に声を掛けてきて、部屋の番号を確かめてから机の上の紙に何かを書いていました。今は、そのオバチャンは居ませんが、オバチャン達は何処に行ったのかな?
部屋に入って直ぐに気になったのは、5階の道路に面した部屋でしたが車の路面の騒音でした。恐らく東西冷戦時代に建てたホテルだと思いますので、泊まる人の騒音や快適性は考えて無い部屋でした。道路の向かいには共産党本部の建物があり、右には公園の林が見えるロケーションのホテルでした。このホテルで良かったのは朝食のビュッフェで、1階のエレベーターの横にその部屋は在り食事はビュッフェ形式でしたが味も良く、生でピアノの演奏(曲は分りません)をしていました。
翌日は朝10時に通訳のモロゾワさんがロビーで待っていて、直ぐに外に止めていた車(トヨタ)で、キエフの街を横断して高速道路(?)に乗ってモデラーの町に行きましたが、途中にパーキング・エリアが無かったので、普通の広い道路だと分りました。道路に警官が時々立っていて車を止めていましたが、通訳のモロゾワさんに言わせると、警官が小遣い稼ぎの為に車を止めて難癖を付けているそうです。日本では考えられないですが!
この道路はオデッサまで行くそうですが、僕は映画の「オデッサ・ファイル」を思い出しました。
モデラーの住む町にはキエフから1時間位で着きましたが、モデラーの家を探すのに手間取ってしまい、村の端まで行ってやっと見つけましたが、車から携帯で連絡したところモデラーが外に出て来ましたが、裸足のサンダル履きで雪の上を歩いて車の所に来てモロゾワさんと話してから家に入れてくれました。
モデラーの話しでは、この家は農家で回りは50m位離れた所に数件の家が在り、それ以外は森と池があるだけでした。彼の工作室は居間で、机の上に色々な工具と作りかけのアルミ製のP−38とそれに使うパーツが無造作に置かれていました。
モデラーは元々はキエフ市内に住んでいたのですが、この町に引越して来たそうです。前にキエフ市内の彼のアパートに3回行きましたが今度の農家も部屋は同じ様に乱雑な居間で、この農家には欠点が一つ有って家にトイレは無いそうです。冬の雪の降る夜は寒いだろな~!
作りかけのアルミのP−38を前にして、モデラーと色々な打ち合わせをしましたが、このモデラーは最初に会った時からアルミのモデル製作以外は何も興味は無いように思われました。
夕方にキエフに帰ってから、ホテルの近くに在ったガラスのウィンドウの御惣菜屋(?)で食事しようと思い、その御惣菜屋に入りましたが、店員が僕の簡単な英語が分らなくて、僕は店員のウクライナ語が全然分らなくて食材を指して買いました。その食材を店内にある机に持って行き、食事をした後ホテルに帰りました。
次の日は朝から通訳とキエフ市内のモデル製作メーカーに行きましたが、そこは2階建ての建物で中に入ると1階の数部屋が工房になっていました。最初に入った部屋に責任者が居たので、どんなモデルを作っているのか見せて貰いました。最初に見せてくれたのは日本機の零観でしたが、機体の色が黄緑で不思議な色のモデルでした。他のモデルは余り馴染みのないソ連時代のモデルでしたし、木を使って作っていました。
次に行ったのは古い建物のお店でしたが、外からは見えなくて通訳のモロゾワさんが、僕の為にこのお店を探してくれていました。
このお店で驚いたのは、実銃が何丁も置いてあり売っていましたが、色々な銃器の中にアメリカ製のトンプソン・マシンガンが売っていた事です。もしかしたら、アメリカがWWII中にウクライナ、チェコ、ルーマニアのドイツに対するパルチザンに貸与した物かと思いました。そのお店ではロシア製の飛行機を膝元に置いた少年の陶器の置物を非買品でしたが、凄く気に入ったのでお店の言い値の25ドルで買いました。
その陶器の置物は気に入ってますので会社に置いています。
それにしてもウクライナのモデラー達は、木、レジン、アルミと極端に違う材質を使用して、モデラーやメーカーがモデルを作る国も珍しいです。

2019/01/12 ヒコー少年回想録24-1976,1977 ニューヨーク~北原さんの家へ

今回は1976、1977年の話しです。

ニューヨークに行ってからは、日本では経験しないような事が、ニューヨークでは普通のように起きていました。
デザインの勉強(スクール・オブ・ビジュアル・アーツの夜間部に通っていた)とティン・トイ、ライブ・ハウス、ロック・コンサート、映画、デザイン関係の資料になりそうな本とかが沢山あり、日本で見た事の無い物ばかりで、毎日、何かしらの発見があり刺激的な毎日でした。
10月の昼過ぎにダウン・タウンに向かっていた、僕の乗っていたバスが交差点の真中で、急にバスのボディを何かで叩く音がしたと思ったら、明らかに麻薬中毒ぽい白人の男が金属の棒でバスのボディを叩きながら平然と歩いて行きました。
バスの乗客はパニックになって、出口のドアに殺到してドアを叩いてました。バスは近くの交差点の角に止まって乗客は前の入り口から降ろされましたが、運転席のガラスは叩き割られていて運転出来る状態で無いのは直ぐに分りました。バスに乗ると時々窓ガラスに小さな穴が空いている時がありましたが、その穴はバスに向けて発砲された穴だと現地の人から聞きました。
時々、黒人の子供達がバスの後ろのバンパーに乗って無賃乗車をしているのは見ましたし、映画館に行ってスクリーンを観ていると決ってマリファナの臭いがするのが日常の出来事でしたし、ロック・コンサートに行くと、決まって隣の席の人からマリファナや何やら分らない錠剤(LSD?)が回ってくるのが普通でした。
当時のニューヨークでは映画みたいな事が何度もありましたし、経験しました。
僕は時々、5番街52丁目のCBSレコード部門のアート・ディレクターのエド・リー氏(アース・ウインド・アンド・フアィアー、ワイルド・チェリー、カンザス、ミート・ローフ等のデザイン)に会いに行って、彼のデザインしたレコード・ジャケットを見せて貰ったり、撮影に同行したりしました。フリー・レコード・ジャケット・デザイナーを紹介して貰ったのは、日本に帰って来てからデザインの参考になりましたし、NYで刺激を受けて沢山のレコード・ジャケット用にラフ・スケッチを描いたものは、帰国後、そのラフ・スケッチで10年間はレコード・ジャケットのデザインに生かせました。
12月にニューヨークからハート・フォードのトイ・フェスに行った時に、ニューヨークのトイ・フェスでも会ったサンフランシスコの人がいて、その人から日本に帰る時にサンフランシスコ寄って、自分の家に泊まってサンフランシスコのティン・トイのお店を見てからロサンゼルスに行って、それから日本に帰ったら如何かと言われ、サンフランシスコに寄る事にしました。
アメリカから帰国して、最初の2日間は渋谷の東武ホテルに泊まり、マンションを探すつもりでいましたが、翌日に北原照久さんに御土産とニューヨークの話しをする為に連絡したところ、ホテルを出て僕の所に泊まりなよと言われ、直ぐに荷物をまとめてホテルを出て山手線に乗り、北原スポーツ店に向かいました。北原さんの働いている北原スポーツ店は東京駅から歩いて4分位の所にあり、北原さんに久し振りに会い、御土産のティン・トイを渡して自分用のティン・トイを見せたり、ニューヨークの話や写真を見せました。夜は北原さんのマンションに行って、久し振りに旬子さんの手料理を食べて、ニューヨークの事で話が咲きました。
その日から北原さん宅に泊めてもらいましたが、北原さんは朝から仕事に行って、僕は住む所を探して昼間は下北沢、東北沢、梅ヶ丘、参宮橋等の小田急線沿いの不動産屋を回って部屋を見せて貰っていましたが、気にいる部屋は直ぐには見つからず北原さん宅に居候していました。北原さんが仕事から帰って来て、一緒に食事を食べてからデザートの時に、ニューヨークのティン・トイのお店の事や、ニューヨークでの生活の事や、郊外のトイ・フェスの事や毎晩話は尽きませんでした。
まるで千夜一夜のようでしたが、その頃は青山学院側に在るボートハウスが話題に上り、いつも北原さんが将来お店を開いて並んでいるお客に整理券を配るのは楽しいだろうねと言って皆で笑うのが常でした。
毎夜、食事の後のデザート時にティン・トイやニューヨークでの生活と経験した事を話して盛り上がっていて楽しい日々でしたが、ある夜に浜圭介さんが訪ねてきて、その後で浜さんの奥様の奥村チヨさんが訪ねて来て5人で色々な話で花が咲き、夜遅くなったので浜さん夫婦は北原さん宅に泊まりました。
僕は北原さん宅では居心地が良く、気が付くと1ヶ月以上も北原さん宅に長居していてマズイと思い、北原さんに参宮橋のマンションが気に入ったので入居する事にしたと言ったところ、以外な返事が返ってきました。
北原さんにその事を言ったら「もう出て行くの?」と言われました。なんとも面倒見のいい親分肌の人に感じましたし、その時に感じたのは北原さんは将来何か大きい事をやると思いましたが、それがトイズ・クラブ、クリスマス・トイズや色々な場所でのトイ・ミュージアム、鑑定団等の、今の活躍を予感させるような北原照久さんでした。

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矢野雅幸(やの まさゆき)
大学卒業後、CBSソニーレコード(当時)に入社。27歳で独立、フリーのデザイナーとして「ビタミンスタジオ」を設立。数多くのアーティストのレコード、CDジャケットのデザインを手懸けている。その後東京 南青山の骨董通りにデスクトップ/ミュージアムモデル専門店「ウイング クラブ」をオープン。この種のモデルの国内における認知を高めると共に、独自のジャンルとして定着させた。