矢野雅幸ブログ

2019/10/26 ヒコー少年回想録26-60年代の話です

60年代の話です。小学6年の時に、其れまでに住んでいた都会から父の実家の観音寺市に移転して中学に入学しましたが、最初に感じたのは自然はあるがプラモデル屋が一軒しかなくて、後は文房具屋にプラモデルが少数置いているだけで不満でした。音楽も中学2年生の頃から、旧いラジオで「9500万人のポピュラーリクエスト」のポップスやロックを聴いていました。
 高校生の時は、リバプール・サウンドやマージー・ビートのイギリスの良い曲が多かったと思います。そんな中でもアメリカン・ロックのクリデンス・クリアウォター・リバイバル(CCR)やグランドフアンク・レイルロード(GFR)は聴いていました。数年前モンキーズの一人が亡くなりましたが、こうして伝説になるのですね!
 今でも、ビートルズは聴いていますが、デビューした中学の2年生の時から聴いていました。ビートルズは3年目ぐらいまで彼ら流のアレンジをして他人の曲を歌っていましたが、その中にオリジナルの素晴らしいバラードとロックンロールを作曲をして演奏しています。今、聴いても全然古臭く無く時代を超越していたのが良く分かります。僕がビートルズでベスト・アルバムを選ぶとしたら、初の全曲オリジナルの「ア・ハード・デイズ・ナイト」でしょう。このアルバムは同名の映画のサウンド・トラックで、田舎に住む矢野少年は2年も遅れて上映されたビートルズの「ア・ハード・デイズ・ナイト」を初日に期待ワクワクで観に行きましたが、映画館内には殆ど観客は居なくて、映画が終わって照明が点いた時に分かったのは、前方の席に座っていた僕の兄!!と館内には20人位しか居ませんでした。当時の田舎には、新しい音楽と文化は理解されていませんでしたが、仕方ないと思っていました。
 田舎でジミ・ヘンドリックスやクリームを聴いていたら犯罪者(これは、冗談ですが、田舎で変わった事をすると目立つ所でした)と言われる60年代でした。僕が高校生の時に組んでいたバンドではドラムだったので、父親から面と向かって不良呼ばわりされましたが、僕は内心父の世代にロックが分かってたまるかと思っていました! 余談ですが、大学に入学して福岡市に行って、やっとプラモデルと音楽にも満足状況になりましたし、1968年に貝塚の九州大学の建築中ビルに墜落したF−4E(?)ファントムに、土方のアルバイトで行った時にジェット・エンジンと機体に触る事が出来ましたし、外板の一部も手に入れました!

2019/01/12 ヒコー少年回想録25-2003年 ウクライナ

2003年頃の冬にウクライナのモデラーに会った時の話です。
ウクライナに行く為に、いつもフランクフルト経由で行っていましたが、フランクフルト空港の地下には飛行機関係のお店があり、乗り継ぎの3時間くらいの間で、その店でDVDや本を買うのを楽しみにしていました。ウクライナ行きのロビーは、フランクフルト空港の中でもロシア行きと同じように、空港の端にロビーが在り暗い感じでした。ウクライナの空港は、ロシアの地方の空港に似ている感じで、空港内のエプロンには西側の空港では見ないYak25、Il76等が駐機していました。
最初のロビーでは、通訳が頼んでいた空港職員が僕を待っていて、イミグレーションの職員に、その空港職員が僕のパスポートと記入した書類を見せると1分もしない内にスタンプを押し、ロビーに出て通訳に会いましたが、そのイミグレーション・オフィサーの前には少なくとも50人以上が並んでいました。後で通訳に聞くとその空港職員に40ドルを渡したそうです。西側の空港では信じられない事が、共産や社会主義国では普通の事だと後で聞きましたが、共産主義や社会主義は全ての人に公平じゃなかったの!?
通訳のモロゾワさんがロビーで待っていて、空港を車で出てホテルに行きましたが、空港から20分位で街に行く橋を渡ってから、公園の坂道を上がったカーブの左にホテルは在りました。キエフの同じホテルに5~6回くらい泊まりましたが、ロシアと同じ様に受付カウンターでパスポートを強制的にカウンターの人に取られました。エレベーターで部屋の階に行ったら、その階の廊下に机にイスに座ったオバチャンが僕に声を掛けてきて、部屋の番号を確かめてから机の上の紙に何かを書いていました。今は、そのオバチャンは居ませんが、オバチャン達は何処に行ったのかな?
部屋に入って直ぐに気になったのは、5階の道路に面した部屋でしたが車の路面の騒音でした。恐らく東西冷戦時代に建てたホテルだと思いますので、泊まる人の騒音や快適性は考えて無い部屋でした。道路の向かいには共産党本部の建物があり、右には公園の林が見えるロケーションのホテルでした。このホテルで良かったのは朝食のビュッフェで、1階のエレベーターの横にその部屋は在り食事はビュッフェ形式でしたが味も良く、生でピアノの演奏(曲は分りません)をしていました。
翌日は朝10時に通訳のモロゾワさんがロビーで待っていて、直ぐに外に止めていた車(トヨタ)で、キエフの街を横断して高速道路(?)に乗ってモデラーの町に行きましたが、途中にパーキング・エリアが無かったので、普通の広い道路だと分りました。道路に警官が時々立っていて車を止めていましたが、通訳のモロゾワさんに言わせると、警官が小遣い稼ぎの為に車を止めて難癖を付けているそうです。日本では考えられないですが!
この道路はオデッサまで行くそうですが、僕は映画の「オデッサ・ファイル」を思い出しました。
モデラーの住む町にはキエフから1時間位で着きましたが、モデラーの家を探すのに手間取ってしまい、村の端まで行ってやっと見つけましたが、車から携帯で連絡したところモデラーが外に出て来ましたが、裸足のサンダル履きで雪の上を歩いて車の所に来てモロゾワさんと話してから家に入れてくれました。
モデラーの話しでは、この家は農家で回りは50m位離れた所に数件の家が在り、それ以外は森と池があるだけでした。彼の工作室は居間で、机の上に色々な工具と作りかけのアルミ製のP−38とそれに使うパーツが無造作に置かれていました。
モデラーは元々はキエフ市内に住んでいたのですが、この町に引越して来たそうです。前にキエフ市内の彼のアパートに3回行きましたが今度の農家も部屋は同じ様に乱雑な居間で、この農家には欠点が一つ有って家にトイレは無いそうです。冬の雪の降る夜は寒いだろな~!
作りかけのアルミのP−38を前にして、モデラーと色々な打ち合わせをしましたが、このモデラーは最初に会った時からアルミのモデル製作以外は何も興味は無いように思われました。
夕方にキエフに帰ってから、ホテルの近くに在ったガラスのウィンドウの御惣菜屋(?)で食事しようと思い、その御惣菜屋に入りましたが、店員が僕の簡単な英語が分らなくて、僕は店員のウクライナ語が全然分らなくて食材を指して買いました。その食材を店内にある机に持って行き、食事をした後ホテルに帰りました。
次の日は朝から通訳とキエフ市内のモデル製作メーカーに行きましたが、そこは2階建ての建物で中に入ると1階の数部屋が工房になっていました。最初に入った部屋に責任者が居たので、どんなモデルを作っているのか見せて貰いました。最初に見せてくれたのは日本機の零観でしたが、機体の色が黄緑で不思議な色のモデルでした。他のモデルは余り馴染みのないソ連時代のモデルでしたし、木を使って作っていました。
次に行ったのは古い建物のお店でしたが、外からは見えなくて通訳のモロゾワさんが、僕の為にこのお店を探してくれていました。
このお店で驚いたのは、実銃が何丁も置いてあり売っていましたが、色々な銃器の中にアメリカ製のトンプソン・マシンガンが売っていた事です。もしかしたら、アメリカがWWII中にウクライナ、チェコ、ルーマニアのドイツに対するパルチザンに貸与した物かと思いました。そのお店ではロシア製の飛行機を膝元に置いた少年の陶器の置物を非買品でしたが、凄く気に入ったのでお店の言い値の25ドルで買いました。
その陶器の置物は気に入ってますので会社に置いています。
それにしてもウクライナのモデラー達は、木、レジン、アルミと極端に違う材質を使用して、モデラーやメーカーがモデルを作る国も珍しいです。

2019/01/12 ヒコー少年回想録24-1976,1977 ニューヨーク~北原さんの家へ

今回は1976、1977年の話しです。

ニューヨークに行ってからは、日本では経験しないような事が、ニューヨークでは普通のように起きていました。
デザインの勉強(スクール・オブ・ビジュアル・アーツの夜間部に通っていた)とティン・トイ、ライブ・ハウス、ロック・コンサート、映画、デザイン関係の資料になりそうな本とかが沢山あり、日本で見た事の無い物ばかりで、毎日、何かしらの発見があり刺激的な毎日でした。
10月の昼過ぎにダウン・タウンに向かっていた、僕の乗っていたバスが交差点の真中で、急にバスのボディを何かで叩く音がしたと思ったら、明らかに麻薬中毒ぽい白人の男が金属の棒でバスのボディを叩きながら平然と歩いて行きました。
バスの乗客はパニックになって、出口のドアに殺到してドアを叩いてました。バスは近くの交差点の角に止まって乗客は前の入り口から降ろされましたが、運転席のガラスは叩き割られていて運転出来る状態で無いのは直ぐに分りました。バスに乗ると時々窓ガラスに小さな穴が空いている時がありましたが、その穴はバスに向けて発砲された穴だと現地の人から聞きました。
時々、黒人の子供達がバスの後ろのバンパーに乗って無賃乗車をしているのは見ましたし、映画館に行ってスクリーンを観ていると決ってマリファナの臭いがするのが日常の出来事でしたし、ロック・コンサートに行くと、決まって隣の席の人からマリファナや何やら分らない錠剤(LSD?)が回ってくるのが普通でした。
当時のニューヨークでは映画みたいな事が何度もありましたし、経験しました。
僕は時々、5番街52丁目のCBSレコード部門のアート・ディレクターのエド・リー氏(アース・ウインド・アンド・フアィアー、ワイルド・チェリー、カンザス、ミート・ローフ等のデザイン)に会いに行って、彼のデザインしたレコード・ジャケットを見せて貰ったり、撮影に同行したりしました。フリー・レコード・ジャケット・デザイナーを紹介して貰ったのは、日本に帰って来てからデザインの参考になりましたし、NYで刺激を受けて沢山のレコード・ジャケット用にラフ・スケッチを描いたものは、帰国後、そのラフ・スケッチで10年間はレコード・ジャケットのデザインに生かせました。
12月にニューヨークからハート・フォードのトイ・フェスに行った時に、ニューヨークのトイ・フェスでも会ったサンフランシスコの人がいて、その人から日本に帰る時にサンフランシスコ寄って、自分の家に泊まってサンフランシスコのティン・トイのお店を見てからロサンゼルスに行って、それから日本に帰ったら如何かと言われ、サンフランシスコに寄る事にしました。
アメリカから帰国して、最初の2日間は渋谷の東武ホテルに泊まり、マンションを探すつもりでいましたが、翌日に北原照久さんに御土産とニューヨークの話しをする為に連絡したところ、ホテルを出て僕の所に泊まりなよと言われ、直ぐに荷物をまとめてホテルを出て山手線に乗り、北原スポーツ店に向かいました。北原さんの働いている北原スポーツ店は東京駅から歩いて4分位の所にあり、北原さんに久し振りに会い、御土産のティン・トイを渡して自分用のティン・トイを見せたり、ニューヨークの話や写真を見せました。夜は北原さんのマンションに行って、久し振りに旬子さんの手料理を食べて、ニューヨークの事で話が咲きました。
その日から北原さん宅に泊めてもらいましたが、北原さんは朝から仕事に行って、僕は住む所を探して昼間は下北沢、東北沢、梅ヶ丘、参宮橋等の小田急線沿いの不動産屋を回って部屋を見せて貰っていましたが、気にいる部屋は直ぐには見つからず北原さん宅に居候していました。北原さんが仕事から帰って来て、一緒に食事を食べてからデザートの時に、ニューヨークのティン・トイのお店の事や、ニューヨークでの生活の事や、郊外のトイ・フェスの事や毎晩話は尽きませんでした。
まるで千夜一夜のようでしたが、その頃は青山学院側に在るボートハウスが話題に上り、いつも北原さんが将来お店を開いて並んでいるお客に整理券を配るのは楽しいだろうねと言って皆で笑うのが常でした。
毎夜、食事の後のデザート時にティン・トイやニューヨークでの生活と経験した事を話して盛り上がっていて楽しい日々でしたが、ある夜に浜圭介さんが訪ねてきて、その後で浜さんの奥様の奥村チヨさんが訪ねて来て5人で色々な話で花が咲き、夜遅くなったので浜さん夫婦は北原さん宅に泊まりました。
僕は北原さん宅では居心地が良く、気が付くと1ヶ月以上も北原さん宅に長居していてマズイと思い、北原さんに参宮橋のマンションが気に入ったので入居する事にしたと言ったところ、以外な返事が返ってきました。
北原さんにその事を言ったら「もう出て行くの?」と言われました。なんとも面倒見のいい親分肌の人に感じましたし、その時に感じたのは北原さんは将来何か大きい事をやると思いましたが、それがトイズ・クラブ、クリスマス・トイズや色々な場所でのトイ・ミュージアム、鑑定団等の、今の活躍を予感させるような北原照久さんでした。

2019/01/12 ヒコー少年回想録23-セブンと香川

1990年の夏にセブン仲間と二人で四国の香川県と愛媛県に行った話しです。
80年代はスーパー・セブンで箱根を越えて行ったセブンは無いと言われていた時に(実は鈴鹿サーキットにセブンは行っている)、僕達は晴海埠頭から徳島行フェリーに、2台のセブンを載せましたが、フェリーで最初に行ったのはレストランでした。
東京の夜景を観ながら食事をして船室に行ったのですが、部屋は8人部屋で暑かったのを憶えています。
徳島港に着いたのは午後1時頃で、フェリーからセブンを降ろしてから国道11号線を香川県方面にセブンを走らせました。屋島に着いた時にセブン2台で頂上まで走りましたが、途中で僕のセブンの後ろから異音を感じて車を止めて車体の下を見たところ、リジッドアクセルの真ん中を止めているチャップマン・ストラットのテフロン・ブッシュが潰れて外にはみ出していました。東京だとパーツを買って自分で取り付けれるのですが、ここは香川県でディラーも修理工場も在りませんので、セブンを騙しながら走らせて実家まで帰りました。
旅の初日から困った事になったと思いましたが、僕のセブンを組み立ててくれた時に、シルバーストーン・ガレージの花村さんが高知に一人セブンのオーナーが居て、時々連絡が来ると言っていたのを思い出して、花村さんに電話して事情を話したところ、高知のセブン・オーナーの電話番号を教えてくれました。
早速、高知の人に電話して事情を話し、彼がゴム・ブッシュを持っているのが分りましたので、午後8時に高知と香川の中間位の池田駅で待ち合わせをして、仲間のセブンに二人乗りして真っ暗な山道を山越えして池田駅に行きました。
高知のセブン・オーナーは我々より先に池田駅に着いていて、挨拶もそこそこに二人が乗ってきたセブンの話になりました。東京でも滅多にセブンには会わないのに、高知でセブンを維持するのは大変だと言う話を高知のセブン・オーナーから聞きました。
80年代はケーターハム・セブンとロータス・セブンは日本に200台位しかなくて、セブンが1台も無い県は相当在ったようですので、高知のセブン・オーナーが僕達からセブンの話や情報を知りたがっていたのは良く分りました。
2時間くらい人気の無い池田駅の前で、セブンの事を色々話してからゴム・ブッシュを貰って、真っ暗な山道を1時間かけて観音寺市に戻りました。
翌日に友達のガレージを借りて、道具を使いゴム・ブッシュを入れましたが、1個のパーツで走れなくなる事の怖さが分りました。その日は暑かったのですが、午後から予約していた松山の道後温泉のホテルに行きましたが、セブンが2台で走っているのは松山市内では余りに目立ちすぎて、映画「イージーライダー」の雰囲気だったので早々にホテルの駐車場に入れました。
その日は道後温泉の風呂に入って久し振りにのんびりしましたが、松山市内(当時の愛媛県にはセブンは在りませんでした)ではセブンが僕達が思っていた以上に目立つので、翌日は昼食をホテルで取り、そのまま何処にも寄らず高速に乗って観音寺市に帰り、室本から仁尾町まで海沿いの道を通り、殆ど車とすれ違わない荘内半島を回って、詫間町に行ってうどんを食べてから近道の丘越えの道で、薄暗くなった上り坂を仁尾町に走りました。上り坂の途中で人が車の前に飛び出して来ましたが、その人は警官で止まれの旗を持っていました。上り坂の左にお墓があるのですが、そこで計測していたのです。
僕は気が付きませんでしたが、セブン仲間は気が付いてスピードを減速して違反にならなかったのですが、警官の一言で僕がその坂でスピード記録を作ってしまったのが分りました。
その道は40キロ制限だったのですが、上り坂で僕は100キロを出して、坂を上ってしまい新記録(この記録はあの田舎道では破られていないと思います)を作ってしまいました。
取締りをしていた警官達が、2台のスーパー・セブンの側に寄ってきてナンバーを確かめてから「この車はナンナー」と方言で聞いて来ましたが、「スーパー・セブン」と一言だけ言って、違反キップを書く為にT字路に置いてある机にいきました。
僕は殆ど車が通らない、こんな田舎道で速度取締りをする必要に疑問だらけでしたが、セブンを止めた場所はT字路で、その道を進んで行くと高瀬警察署があるのです。ナルホド!!
この違反の件は、東京に戻ってから検察に行ったり、田舎の裁判所に行ったりして約1年くらい色々な経験をしましたが、結局、免許証は2時間しか僕の手から離れませんでしたが、反則金は8万円になりました。
この顛末はまたの機会に・・・!

2019/01/12 ヒコー少年回想録22-ロータス・エリーゼS1

今回の話はロータス・エリーゼS1.

1994年に仕事でヨーロッパに行った時に、何時もの様にロンドンに寄りました。いつものヘンドン・ロイヤル・エアフォース・ムュージアムやコベント・ガーデンやモーター・ブックス等に行き、4~5日をロンドンで泊まるのを習慣にしていました。
帰りにヒースロー空港の売店で、表紙にロータス・エリーゼの見出しとシャシーの写真が載っていた本を買いました。機内で本の記事を見るとエリーゼのラフ・スケッチの絵が載っていましたが、それには車重870kg、118hp、アルミ・フライホイール、アルミ・シャシーと書いていました。
アルミ・シャシーの写真を見ただけで、エリーゼは箱根で走らせたら面白いのは分りましたが、パワーが車重に対して不足していると思いました。その前に乗っていたNSXは280馬力(車重約1200kg以上)だったので、エリーゼの118馬力はパワー不足に感じました。
約2年後にエリーゼを千葉の車屋(その当時はエリーゼのディラーは無かった)で買って、エリーゼの受け取りは代々木公園の原宿方面に向かった路上パーキングの一角でした。2時に待ち合わせをしていたので、ウイング・クラブのお店を1時40分頃に出て、タクシーで代々木公園に向かいました。代々木公園の入り口でタクシーを降りたら、代々木体育館の向かいにむき出しのトランポの荷台にエリーゼが載せられていました。トランポの荷台が傾いて、道路にエリーゼを降ろしてから受け取りのサインをして、コクピット・ドリルを受けました。
エリーゼを走らせた時に、直ぐに車体の軽さを感じましたがアルミ・ディスクは冷えている時は鳴くので、それだけは興ざめでしたが、ボディ・デザインはロータスの伝統を受け継いでいて凄く気に入りました。
早速、休みの日をとって箱根に走りに行きましたが、エンジンが新品なので余り回せんでしたが、車体の軽さとハンドリングの良さはロータスの伝統を受け継いでいるように感じました。
自宅から会社の通勤にエリーゼを使っていると、アルミ・シャシーとボディは何も問題無いのですが、エンジン下のアルミ製のアンダー・カバーが首都高速道路の継ぎ目でタワンで不愉快な音がするので、そのアンダー・カバーのタワミ止めは、スーパー・セブンで御世話になった花村さんのシルバーストーン・ガレージに頼みました。預けて3日後にエリーゼは戻って来ましたが音は消えていました。エリーゼの改造部品は大阪の店が作っていたので、最初にリア・ウインドウをアクリルに変えて、ロール・バーの上に付いてる幌用のパーツを取って、ヘッド・ライトにアクリル・カパーを付けました。ロータスの法則通り1gでも軽くする為に、後ろのロータスの文字も剥がしてしまい、トランクには何も入れませんでした。
箱根に何度も走りに行きましたが、エリーゼしか味わえない軽さをコーナーごとに感じました。ロータスは走る人の気持ちを判っていると思いました。

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矢野雅幸(やの まさゆき)
大学卒業後、CBSソニーレコード(当時)に入社。27歳で独立、フリーのデザイナーとして「ビタミンスタジオ」を設立。数多くのアーティストのレコード、CDジャケットのデザインを手懸けている。その後東京 南青山の骨董通りにデスクトップ/ミュージアムモデル専門店「ウイング クラブ」をオープン。この種のモデルの国内における認知を高めると共に、独自のジャンルとして定着させた。